2020年8月17日

いくつかの断想・・・


● 先ず昨夜の投稿について。繰り返し言いたいことは、「私たちは過った」ではなく、「わたしは過ちを犯した」ということ。
「相手を深く知ろうとし過ぎた」と書いたけれども、それ以上に、わたしという人間を知ってもらいたかった。知らせたかった。そして深入りし過ぎた。過ったのはわたしだと、何度でも何度でも、強調しておきたい・・・



● 昨日の文章を読み返すと、明らかにわたしの状況は相当悪いと思われる。
現在は精神科には月に一度、母に決まった薬を取りに行ってもらっているだけ。
わたしの記憶では今年になってから主治医と話をしていない。
その障壁となっているのが電車と駅である。
主治医のところまでは電車で二駅、しかし、同じ電車に乗るなら隣の国立の方が遥かに行き易い。
なぜなら、国立駅はわたしの知る限り、日のある時間に余計な電気を点けていない。
そして終点ではないので、あの耳ざわりな" Thank you for traveling with us!" という、ここが紛れもなく「植民地」であることを思い起させる卑屈なアナウンスを聞かなくて済む。

最近はオンライン診療というものをやっているクリニックも少なくないと母が言っていた。母は新聞で読んだ。そもそもオンライン診療というものがどういうものかは知らないが、電話ではないのだろう。わたしはテレビ電話のようなものが大の苦手である。「醜貌恐怖」?もあるのかもしれない。わたしのパソコンに取り付けられていたカメラらしきものは、とうに先端の尖ったもので潰してある。自分の貌を相手が視、相手の貌を見乍ら、しかもそこに本人はいないなんて環境でとても普通の会話などできない。
それが家族であれ、主治医であれ、テレビ電話で人と話すくらいなら、300人の聴衆を前に演説する方が遥かに楽だ。
実際、もし誰かが、場所を用意したので500人の前で好きなことを話してみてくださいと言って来たら、おそらく喜んで応じるだろう。無論報酬など一文も要らない。

引きこもっている人、外に出られない人にはオンラインの普及は朗報だという話もたまに耳にする。

わたしは外に出ることが困難な人間だ。なぜなら外の世界には、スマートフォンやら、タブレットやら、ワイファイといったわたしのもっとも苦手なITワールドが広がっているのだから。

わたしは現在主治医のところにも行けない状況だが、上記の理由から、仮にわたしの通院している(た)クリニックが「オンライン診療」を行っていたとしても、わたしは利用できないし、またするつもりもない。
「オンライン〇〇的」な世界が苦手だから引きこもっているのだから・・・




● ウディー・アレンの『アニー・ホール』の冒頭で、彼が、「自分をメンバーにするようなクラブには入りたくない」というグルーチョ・マルクスのジョークを紹介し、これは自分にとっての「キー・ジョーク」だという。(おそらくオリジナルはフロイトだろう、とも)

わたしの好きなジョークがある。

「わたし玉ねぎが嫌いでよかった。だってもし好きだったら、食べなくちゃならないでしょう!」

わたしの「治癒」に関する考え、或いはスマートフォンに対する考えもこれに似ている。



● わたしは何かに困っている。それは確かだ、けれども、相談先は口をそろえてこう言う。
「私は何に困ってるんでしょうといわれても困りますねえ。何に困っているのかがわかってから相談に来てください」と。












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