2020年8月30日

「番外編」ひとり居酒屋政談・・・


安倍総理の辞任を承けて、いくつかの政治系ブログを散見した。というよりも、実際には順番が逆で、ある契機で政治系のブログを覗いていて、そこで初めて安倍が辞めるということを知った。

もともと全くと言っていいほど政治に関心がないせいか、猫額洞をはじめ、どのブログをみてもなにひとつ頷くところはなかった。

そもそもわたしはいつも言っているように、テレビを視る習慣もないし、ラジオも聴かない、新聞も読まない、インターネットでは主に海外のアート系ブログを見ているか、たまに精神障害の方たちのブログを読む程度。ネットニュースに関心はない。SNSは大嫌い。
何よりも情報をインターネット上で蒐集するという横着さが大嫌い。

ことほど左様に情報に関しては無知なので、政治に関して何事かを語る資格がない・・・「シカク」?政治に関して語る資格がない?ではいったい誰ならその「資格」を持つのか?政治評論家か?ブンカジンなどと総称される一群の人たちか?いったいどれほどの知識と情報量が語る資格の目安になるのだろう?



とりあえず無資格のまま思ったことを放言させてもらうなら、先ずわたし個人はアベが辞めたからといってなにも感じないということ。何故「政治家」乃至「政権・政府」と「国民」を分離して考えるのか?かつて書いたことがある、安倍政権がこれだけの高い支持を保ちながら政権の座に留まっているのは、この政権が嘗てなく、ニッポンジンのメンタリティーと相性がいいからではないからではないか、と。その考えは今も変わらない。
安倍総理は「膿を出し切る」と言った。そしてその通り、安倍の下で、日本人の膿はジュクジュクと滲み出てきた。拭き取るそばから滲み出てきた・・・これは決して安倍政権の「膿」ではない。日本人の、日本民族の「膿」であり「爛れ」である。

そもそもの発想がさかしまなのだ。アベがあって、いまの日本という国があるのではない。
日本という国が安倍(ないしアベ的なるもの)を産み出したのだ。
その母体が、その土壌が盤石である以上、永遠に安倍的なるものが産出し続けられるであろうことは子供にもわかる道理ではないか。

安倍が辞めたと小躍りしている連中はわたしの目にはただただお目出度い人たちにしか映らない。

ではどうしろというのか?

日本は永遠に変わらない。その事実を認めることだ。

日本は所詮ゼネストを起こすことも、数百万規模のデモをぶち上げることも、暴動を起こすことも、街を破壊することも、警官隊と正面からぶつかることも出来ない。韓国にも、香港にも、フランスにもなれないのだ。

民主主義?身の程を知ることだよ。

わたしは安倍に期待していた、この国を亡ぼすことができるのは安倍しかいないだろうと、滅ぼすとはもちろん日本民族の滅亡に他ならない。

ゼネストもしない、大規模デモも出来ない、破壊活動も、暴動も起こせないで、
スマホでツイッターとやらにチマチマと正論めいたきれいごとを発信しているだけのしょぼい邦なら、なくなったって大差ないだろう?


ー追記ー

では猫額洞さんにお聞きします。何故「SNS」と政治活動を同列に扱うのでしょうか?ひょっとして「SNS」が「文化」であるとでも?
ツイッターで政治が変えられるのであるなら、何故フランス人は、香港の市民は、韓国民はわざわざ血を流し汗を流したりするのでしょう?
「我々のように」極めて有効にSNSを使いこなせない遅れた人々=野蛮人だからでしょうか?

(ご存じでしょうが、シュールレアリズムは「あらゆる有用性への反抗・反逆」がその宣言の要旨です。単純に超現実主義を「政治」と対置する「文化」の枠内に嵌め込むことには無理があると思います。シュールレアリズムは「文化という有用性」からも自ら一線を画しています・・・猫額洞さんの言葉を借りるなら、シュールレアリズムは人間の生活一般からも自らを隔てています。)



つぶさに読まなかったので不正確な物言いになるが、日頃わたしが「『敬して遠ざける』ではなく「軽して(=軽んじて)」遠ざけて」いるブログで、永井荷風を「反骨の人」などと言ってはいなかったか?へえ。「反骨の人」がヒロヒトなり時の総理大臣に深々と頭(こうべ)を垂れて三拝九拝して勲章を押し頂くのかね?


* *


以下、2015年10月に書いた記事を引用します。


「背徳」と「反時代」の潰え・・・

金子國義の死を知らなかった。偶然あるサイトの古い記事(2015.3.18)で知った。好きな画家のひとりだった。
そのサイトの記事には次のような一文があり、
その一文にひっかかっている。
「...親友であり、人形作家でもある四谷シモン氏は、Twitterですぐに反応し、深い悲しみと追憶が混在した内容をツイートされていました。」
なにがへんなの?と思う人も多いと思う。
四谷シモンといって、すぐに連想するのは、ハンス・ベルメールの球体関節人形だ。
「有用性を追い求め続ける世界に対して、徹底した無用性で応えた」ベルメールの、あの不思議な人形たち。

四谷シモンという人についてはよく...というよりもあの人形のこと以外はなにも知らないけれど、
「金子國義の死への哀悼と追憶をツイート...」というところがとても薄気味悪く思える。
同じサイトに、携帯電話すらなかった時代にこの世界を去っていった澁澤龍彦が、金子國義の個展、『花咲く乙女たちのスキャンダル』に寄せた文章が載せられている。

そこには

「私が興味をいだくのは、おのれの城に閉じこもり、小さな壁の孔から、自分だけの光り輝やく現実を眺めている、徹底的に反時代的な画家だけである。
金子國義氏が眺めているのは、遠い記憶の中にじっと静止したまま浮かんでいる、幼年時代の失われた王国である。
(中略)
前衛亡者の騒々しいスキャンダリズムに不感症になった人は、この歴史とともに古い、俗悪なほど純粋な、痴呆的なほど甘美な『花咲く乙女たち』の桃色のスキャンダリズムに腹を立てるが良い。」

というようなことが書かれている。

わたしのなかでは、一人の異色・異端の芸術家であった金子國義という人物と彼の作品、その別れに際してのツイッターでの哀悼というのがどうしても齟齬をきたしてしまうのだ。
彼のファンたちの間で、四谷シモンのツイートは瞬く間に、相当な数でリツイートされたのだろう。それこそが金子國義の絵や、ベルメールの球体関節人形以上の不気味さを醸し出す。

親友であったものがツイートして哀悼の意を表す、ということは、金子國義自身も生前、ツイッターをやっていたのかもしれない。

「私が興味をいだくのは、おのれの城に閉じこもり、小さな壁の孔から、自分だけの光り輝やく現実を眺めている、徹底的に反時代的な画家だけである。」
澁澤の言葉がいつまでも胸の奥に虚ろに木魂しているようだ...反時代とはなにか?

しかし、そんなことはどうでもいいことなのかもしれないという気だるくけうとい気分が胸の中に居座っていることも事実なのだ。すべては流されのみこまれてゆくだけなのだから...

反時代も、背徳も、反逆、反抗、異端、不逞...すべては後ろを振り返って一抹の哀惜とほろにがい胸のざわめきとともに脳裏に浮かべる、今は無きうたかたの美徳に過ぎないのだから...

「遠い記憶の中に、じっと静止したまま浮かんでいる、幼年時代の失われた王国」なのだから...

ツイッターで友の死を語ることを「冒瀆」と見做すものは、もはやわたししかいないのだから。












0 件のコメント:

コメントを投稿