2020年8月31日

無題


『カラマーゾフの兄弟』の中のイワンの議論。「この壮大な塔の構築によって今まで見なかったようなどんな素晴らしい光景があらわれるとしても、それがただひとりの子どもにただ一滴の涙を流させずにはあがなえないものなら、ぼくはお断りするね。」
 わたしはこの意見に全く固執する。ひとりの子どもの一滴の涙をつぐなうに足るものとして、たとえ人がどんな理由を持ち出してくるとしても、わたしはこの涙を容認することはできない。知性によって考えつくことのできる限りのどんな理由であろうと、絶対に。
ただひとつの理由だけを除いて。ただしそれは超自然的な愛によってのみ理解できるものである。すなわち神のみこころであったということである。そしてこの理由のためならば、わたしは子供の涙はおろか、悪にすぎないような世界をも受け入れるだろう。
ー シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』田辺 保 訳


この場合、イワン・カラマーゾフのいう「壮大な塔」とは何を示しているのか?
また「子供の涙」とは?

仮に「子供」というものを「地上で最も弱い存在」の表象であると仮定してみよう。
であるならば、シモーヌ・ヴェイユの善の、或いはモラルの規準はもっとも弱き者の存在を起点としている。しかしもっとも弱き者が最も正しき者であるという法則はどこにもないはずだ。
けれども、我々は最も弱き者を最も正しき者と見做さなければならないだろう。
だが一方で、もし弱き者の一滴の涙が、塔の建造を中止させるに足るほどに万能であるのなら。最早それは「最も弱き者ではない」

イワン・カラマーゾフは、シモーヌ・ヴェイユは「弱き者」を偶像化してはいないか?
偶像化することによって、弱者を強者の位置に置き換えてはいないか?
どんなに涙を流しても決して誰からも顧みられない者・・・それこそが真の弱き者ではないだろうか?

もしも「救済」というものが、あらゆる子供の目から一粒の涙も流れない世界を創ることであるのなら、わたしはそのような世界はお断りする。

ヴェイユに反して、わたしはイワン・カラマーゾフの言葉よりも、

「しかし悲しみをおつくりになった神は、我々よりも賢明なお方ではないのでしょうか?」

というオスカー・ワイルドの童話の中で語られている言葉に共鳴する。

神という存在についての議論は、我々が遂に民主主義というものを理解し得ないのと同じく、到底わたしの理解の能力を超えている。
我々は「神」の文化圏にも「民主主義」の文化圏にも決して属してはいない。











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