2020年8月26日

「汚れ」が嫌われる時代


Three kids, dirty faces, 1949, Rae Russel.

*

” I hate the world. Everything comes into it so clean and goes out so dirty. ” 

Cornell Woolrich. 'Cover Charge' 1926 


*  * 


おれはこの「清潔さ」が蔓延り、汚れたもの(者)が駆逐されてゆく世界が嫌いだ。

コーネル・ウールリッチ


誰かがいってたっけ、「昔からいつもひとは「昔はよかった」って言い続けてきた。
だとしたら、今は相当ひどい時代になってるはずだけど・・・そうじゃない。」って。

今が相当ひどい、末期的な時代であると思わない鈍感さと底抜けの楽観主義に呆然とする・・・


ー追記ー (2018年8月8日投稿より)

先週の新聞の四コマ漫画の意味が解らなくて、東京新聞に問い合わせた。

一コマ目「主人公の女の子とネコが散歩していると、近所のおばさんが電柱に霧吹きで水をかけている」

二コマ目「何やってるのと訊くと、おばさんは、散歩させている犬が電柱におしっこしたから水をかけているのだという」

三コマ目「女の子がそれを貸してという。おばさんは不思議そうな顔をする」

四コマ目「女の子が霧吹きで自分の顔に水をかける。「こうすると気持ちイイ!」」

新聞社の担当は、わたしが最後の女の子の行動が解らなかったと思ったらしい。
そうではない。何故、犬が電柱にオシッコをした後に水を流すのか?と訊いた。
向こうはそんなこともわからないのかといった調子で、「飼い主のエチケットです。マナーです。今はみんなそうしていますよ」

ショックだった。

トム・ウェイツに”レイン・ドッグ”という歌がある、自分の付けた道しるべを雨に流され、帰る道を失って途方に暮れる ─── 自分を支えてくれるように思えたいくつかの出来事も、街の佇まいも、文化の在り方も、生活の作法も、一夜のうちに消されてしまう。そして帰り道を無くした犬のように、往くべき道を見失う・・・

かつてそうでなかったものが、「汚れ」或いは「穢れ」と見做されるようになり、街中が滅菌、消毒、消臭され、人びとはこれで清潔キレイになったと安心する。それはどこか、犯罪者のあわただしい大量消去に似てはいないか。
「汚れた臭い無宿人」たちの強制排除の心性と通底していないか。

「市場のあるところ詩情なし」自分の美意識と背馳する世界に尚生きたいのかという、根深い問いかけ、懐疑があるのだ。

そこで戻ってくるのはまたしても「動物園の檻の中での健康」「囚人としての刑務所の中での健康」といういつものアポリアになる。












3 件のコメント:

  1. Ciao Takeoさん
    よーくわかります。
    私もこの清潔さのみが威張り顔で闊歩し、汚れたものが駆逐されてゆく世界は大嫌いです。

    大体私は健康でいるためには、細菌やらバイ菌を少しくらい身体に取り込みながら暮らすのが、一番自然でそして身体の免疫力も高めることができると信じていますから、この消毒消毒、最近ではコロナのおかげでさらにこの人々の消毒癖が高まり、逆にそれは人間の抵抗力を弱め、ひ弱な生き物にしていくだろうとウンザリしています。
    まあ、消毒の後、ひ弱になった彼らは、事ある毎に薬を飲んでその場を収めて口を拭うのでしょうが、、
    バッカじゃないかと思います。

    汚れって生きている証と言うか、個性と言うか、それを全て拒否、駆逐するのは不自然極まりないです。
    生きていれば汗もかくし、垢だって溜まるのです。
    それさえしておけば安全とばかり、消毒に依存する、、私はこの安易さを嫌悪します。
    その安易さからは、本来人間が持つべき智慧がかけらも感じられません。

    大体自分たちの魂の汚さを棚に上げて、バイ菌たちのみを悪者にして、自分たちは真っ当な人間だとばかりの聖人ヅラ。
    再び
    バッカじゃぁないの。と言います。

    いずれにしても、ますますこの社会は陳腐で安っぽい、私の嫌いな世界になっていっています。

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    1. こんばんは、Junkoさん。

      コメントをありがとうございます。

      元の投稿自体はシンプルに書いていますが、また、いただいたJunkoさんのコメントもシンプルですが、いざ考え始めるとなかなか簡単な問題ではないことに気づきます。

      わたしのとりとめもないひとりがたりだと思って読んでください。



      このようなことを書いているわたし自身、かなり「潔癖」なところがあります。「よごれ」に人一倍敏感だと思います。そういう自分の性向を、「だってそうなんだから仕方ないじゃないか」とは言いたくなくて、できればもっと鷹揚でありたいと思います。自分のそういう神経症染みたところが好きではありません。

      この投稿にyy8さん=ヒロさんのコメントがありますね。

      https://pobohpeculi.blogspot.com/2018/08/blog-post_91.html

      >犬にとっては迷惑でしょうが、その匂いを嫌がる人がいるから。世田谷の首都高の下の道路にあるラーメン屋の近くに、決まって人がオシッコをする場所がありますが、そこはひどい臭いがします。


      さすがに犬のトイレの傍でラーメンを食べるのはうれしくないですね。
      だから、屋台の親父が、そこにバケツで水をかけてにおいを消すということは当たり前だと思います。でもこれはあくまでも限定された場所だと思います。それを一般化することに疑問があります。

      昔、犬を散歩させている時に、犬は今と変わらずどこにでもオシッコをしていたはずです。電柱でも、人家の壁でも、門柱でも、木の根元でも。じゃあ、今は昔に比べて、人々の衛生に対する意識が高まった結果、犬のオシッコを消して歩くようになったのでしょうか?

      人々の意識の高まり・・・

      それってなんでしょう?

      秋に路に散り敷かれた枯葉を、春に散った桜の花びらを「危険だから落ちたはじから清掃してゆく」・・・
      これは人々の衛生や安全に対する意識の向上の結果でしょうか?

      では一方で、駅前で、或いは大きな病院の出入り口で、客を待つタクシーが列をなしてアイドリングをしているのはどういうことでしょうか?

      相も変わらずこの炎天下、駅のプラットホームに無駄な明かりがともされているのは何故でしょうか?

      それらはなんら地球の温暖化とは無関係なのでしょうか?

      >大体自分たちの魂の汚さを棚に上げて、バイ菌たちのみを悪者にして、自分たちは真っ当な人間だとばかりの聖人ヅラ。

      これも何度もここで引用してきた山田太一氏の言葉ですが、「人間は誰でも心に汚れを抱えている。その人間自身の汚れをあたかも存在しないように、街だけがどんどん綺麗になってゆくと、人間の居場所がなくなると思うんです」

      つまり山田太一の言葉は、ウールリッチの慨嘆に通じると思うのです。

      「人は街に、自分の内面の汚れに相応しい汚れを求める」

      写真の子供たちだって、家に帰れば、顔を洗い、手を洗うのです。それは当たり前ののことだと思います。でも今の子供たちには、泥んこになって遊ぶ時間も場所もない。

      繰り返しますが、それが人々の衛生や安全に対する・・・もっと広く人間が生きていく場ー生活環境への意識の高まりの結果なのでしょうか?

      >汚れって生きている証と言うか、個性と言うか、それを全て拒否、駆逐するのは不自然極まりないです。

      これはまったくその通りだと思います。

      最後に、地球温暖化によって、ホッキョクグマが絶滅する可能性が出てきた。2030年代には人間の生存する環境は今以上に過酷になるだろうという予測が科学者たちの間で出されている。
      日本に関していえば、プラスティックのゴミ=製品は減ったようには見えない。

      わたしには現代人の意識の高まりを実感できないのです。



      シンプルなコメントにまた冗長な返事をしてしまいました。
      Junkoさんの意見。苛立ちに共感します。




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    2. 追記

      「よごれ」「きたなさ」ってなんでしょうね?

      こんな小噺があります。殿様がお浸しを食べている。前に食べたものに比べると、味が落ちているように感じるといいます。お付の者が
      「おそれながら先に殿が召しあがった菜は下肥を掛けて作ったものでございますので、味がよろしいのでしょう」
      「そうか。苦しゅうない。これに下肥をかけて参れ」

      下肥(しもごえ)若い人・・・でなくても分からない人もいるんでしょうね。

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