2018年8月8日

困っていないのに自殺する人


「困っていないのに自殺する人」そんな人物を想像してみる。困っていないのに自殺するということはあり得るだろうか?
「生の倦怠」(=アンニュイ)、「懈怠のうちに死を夢む」(中原中也)
特に病気でもなく、経済的に窮迫しているというわけでもないが、「生きているのが厭になりましたからお暇します」そんなこともないではないだろうけれど。

・・・そもそも「困っている」の「困る」とはどういうことだろう?

現在わたしは外に出ることができない。今日のように比較的涼しい日でも。
秋になれば・・・そんな「先」のことはまるでわからない。

精神科はもとより、内科、眼科で必要な薬を、高齢の母にわざわざ取りに行ってもらっている。わたしが行けば半分の時間で済むところを・・・



今日「東京都多摩精神保健福祉センター」の電話相談に電話をした。
(以下相談員〔精神保健福祉士〕ーA(アドバイザー))

おそらくわたしと同世代くらいと思われる男性精神保健福祉士は、言う。
A:「正直あなたが何に、どう困っているのかわからない・・・」
A:「ここに電話してくる人はみな、「困っているから」電話してくるんですよ。あなたのお話はじつに、何というか、堂々と、理路整然としていて、現在の「引きこもり」の状態にしても、あなたは「引きこもりから抜け出したいのか?でも何のために?それが解らない」と言う。そして「実際生きていたいのか死にたいのかわからない」と落ち着いた口調で仰る。失礼ですが、あなたが「何に、どのように困っているのか」が解らないと、こちらもアドバイスの仕様がないのですよ・・・」受話器の向こうから当惑した声が聞こえる。

A:「引きこもり」にしても、こちらに電話をかけて来られる方の多くは、当事者ではなく、親御さんの場合が多いのです。あなたのように積極的に「引きこもっているわたし」について、そのようなハッキリした口調で「相談」される方は非常に珍しい。

A:「もちろん、ただこうやって話すだけで、気持ちが楽になるという意味でかけて来られる方もいらっしゃいます。けれどもあなたの話しぶりを伺っているとそんなかんじでもなさそうですし・・・」



結局先方は、「どうしても死にたくなったらかけてきなさい」と言っているのだろうか?
今のわたしのように、「何に困っているのかわからなくて困っている」などという蒟蒻問答のようなものには付き合いきれないということなのだろうか?

今の自分の気持ちを覗いて見れば「生きるべきか 死ぬべきか それが問題だ!」という状態だ。そんな中途半端な相談には乗れないというのか?
「生か?死か?」これが「中途半端」で、切迫した問題ではないと?

どうしたら、わたしが困っているとわかってもらえるのだろうか?
いやいや、そうまでして「わかってもらいたい」のか?縋りつくのか?
「タスケテクダサイ」と?

それともわたしは困ってなどいないのだろうか?

困るとはどういうことか?

誰か教えてくれないか・・・

わからないのか?こういう人間ばかり目にするから、自分が生きたいのかわからなくなるということが。



ー追記ー

先週の新聞の四コマ漫画の意味が解らなくて、東京新聞に問い合わせた。

一コマ目「主人公の女の子とネコが散歩していると、近所のおばさんが電柱に霧吹きで水をかけている」

二コマ目「何やってるのと訊くと、おばさんは、散歩させている犬が電柱におしっこしたから水をかけているのだという」

三コマ目「女の子がそれを貸してという。おばさんは不思議そうな顔をする」

四コマ目「女の子が霧吹きで自分の顔に水をかける。「こうすると気持ちイイ!」」

新聞社の担当は、わたしが最後の女の子の行動が解らなかったと思ったらしい。
そうではない。何故、犬が電柱にオシッコをした後に水を流すのか?と訊いた。
向こうはそんなこともわからないのかといった調子で、「飼い主のエチケットです。マナーです。今はみんなそうしていますよ」

ショックだった。

トム・ウェイツに”レイン・ドッグ”という歌がある、自分の付けた道しるべを雨に流され、帰る道を失って途方に暮れる ─── 自分を支えてくれるように思えたいくつかの出来事も、街の佇まいも、文化の在り方も、生活の作法も、一夜のうちに消されてしまう。そして帰り道を無くした犬のように、往くべき道を見失う・・・

かつてそうでなかったものが、「汚れ」或いは「穢れ」と見做されるようになり、街中が滅菌、消毒、消臭され、人びとはこれで清潔キレイになったと安心する。それはどこか、犯罪者のあわただしい大量消去に似てはいないか。
「汚れた臭い無宿人」たちの強制排除の心性と通底していないか。

「市場のあるところ詩情なし」自分の美意識と背馳する世界に尚生きたいのかという、根深い問いかけ、懐疑があるのだ。

そこで戻ってくるのはまたしても「動物園の檻の中での健康」「囚人としての刑務所の中での健康」といういつものアポリアになる。












2 件のコメント:

  1. 私の受け止め方。

    困っていないのに自殺する人はいるかもしれない。
    生、生きている事で感じる喜びや楽しみがなければ、その生きる力が湧かないと思う。

    生きることで発生する苦しみや悲しみは、かえって生というエネルギーの反発力を生むように思う。

    犬のオシッコは臭い消しですね。犬にとっては迷惑でしょうが、その匂いを嫌がる人がいるから。世田谷の首都高の下の道路にあるラーメン屋の近くに、決まって人がオシッコをする場所がありますが、そこはひどい臭いがします。

    Nicoさんには疑問、があります。

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    1. こんばんは、yy8さん。

      確かに、マイナスではなくとも、生きること、生きていることが彼にとってゼロであれば、自殺するかもしれないですね。

      >生きることで発生する苦しみや悲しみは、かえって生というエネルギーの反発力を生むように思う。

      これはわたしのことでしょうか?

      わたしは感覚が過敏なので、普通の生活音でさえうるさいと感じてしまうのですが、
      「~を嫌がる人がいる」の、嫌がる人の基準はなんでしょうね?
      先日の産経新聞の記者やわたしはスマーフォンを見るのも嫌だ。でもだれもそんな人を相手にしてくれません。単なる変人扱いです。

      街を歩くと嫌なことだらけです。車のアイドリング、駅や電車やバス、公共の建物の中での執拗な注意喚起のアナウンス。

      そのラーメン屋のケースは極端にしても、なにかどんどんどんどん、自分のいる場所と自分の感受性が乖離していく気がします。

      >Nicoさんには疑問、があります。

      疑問とは?

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