2018年8月29日

答えを知る意味


たとえばわたし(T)と友だち(F)が、或る日の昼下がり、喫茶店で向き合ってしゃべっている。

わたしがいう「ぼくはビル・エヴァンスの『ポートレイト・イン・ジャズ』とコルトレーンの『バラード』でジャズに目覚めたんだけど、ビル・エヴァンス・トリオってさ、ビル・エヴァンスと、ポール・モチアンと、もうひとり誰だっけ?」

F:「え?よく憶えてないな。誰だったっけ?」

T:「ポール・モチアンって、ドラムだっけ、ベースだっけ?」

F:「ドラムじゃなかたっけ?」

T:「ううん。あとひとり、誰だったけかなあ・・・」

F:「うん。なんかね、思い出せそうで思い出せないよね」

と、ここで、友人が、スマホを取り出して「検索」する必要はまるで感じないのだ。
別に3人目が誰であったかを思い出さなければならない理由はない。
というよりも、そこで、その場で、「サクサクとケンサク」して「答え」を知ってしまうことがひどく不粋に思えるのだ。

わからないまま二人はわかれる、帰り際、ふと第三の男の名前が閃く。
帰ってから夜、彼に電話する。「あれから歩いててふと思い出したんだよ。誰々だよ!」
「あ!そうか」

こんな感じがいい。別れた後、駅までの道を歩きながら思い出しても、その場でスマホを取り出して、まだ帰路にあるだろう友達に報せる必要もない。

解らないことがある、忘れてしまった名前がある。
いつでもどこでもその知らなかったこと、忘れてしまった名を教えてくれる機械というものが存在する世界、そのことがとてつもなくグロテスクなものにおもえる。
道がわからなくて通りすがりの誰かに尋ねる必要もない。そんな世界がとても味気なく・・・いや、不気味にさえ感じられるのだ。

「なんだったっけ?」「誰だったっけ?」と、ひとりで、或いは誰かと、じれったい気持ちを抱えて悶々としてるのって、そう悪くないじゃないか。
さんざ道を間違えて、やっと目的地にたどり着いた時に思わず浮かぶ笑みって、そう悪くないじゃないか。

そんなことを考えているから、わたしはただ一人時代に取り残されているのだろう。






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