2018年8月10日

わたしは自殺者のいない世界を望まない


20年近く前の新聞の切り抜きから。当時55歳の女性看護師の投稿。

老健施設に勤めて5年。雨の多かった今年の夏、こんなことがあった。8月15日、沼津は大雨で、施設の周囲が冠水し孤立した状態になった。勤務が終わっても帰宅できず泊まることになり、毎晩不安がる100歳の女性の畳部屋で添い寝することにした。夜間見回りの時にはいつも注意しているお年寄りのひとりだ。
 おばあさんは眠りにつくまで、私の方を向いて、私の顔や頭をなで、「おかあさん、おかあさん」と言った・・・

やがておばあさんは、安心して眠りに就いたと書いてある。



シモーヌ・ヴェイユや辺見庸に教えられるまでもなく、より弱い者こそ尊く、気高い存在だと思っている。逆につよい者、力のある者、成功した者は何故か私の目には醜悪に映る。(極端に言えば辺見庸でさえ・・・)


人間はひとくきの葦に過ぎない。自然の中で最も弱い者である。だがそれは考える葦である。
 (略)
だから我々の尊厳のすべては、考えることの中にある
ー パスカル『パンセ』断章 三四七 (前田陽一 由木 康 訳)

人間の尊さは「考えること」の中にあるのではない。

「人間はひとくきの葦に過ぎない。自然の中で最も弱い者である。」
もうそれだけで充分ではないか。「だがそれは・・・」以下はあらずもがな。

「おかあさん」とつぶやく老婆は、最早パスカルのいう「人間の根源的な尊厳」すら失っているだろう。
けれどもわたしは彼女の姿に、ルネサンスーバロック時代の画家たちの描いた「聖母子像」や「ピエタ」に勝る愛と哀しみの美を見る。
「聖母子」ー「聖母マリア」と「神の子キリスト」・・・すなわち選ばれし人たち。

繰り返すが、名も無き者であること、弱き者であること、そこに真の美は宿る。



わたしの気持ちはいつも揺れ動き、分裂している。

名も無き者こそ最も尊く美しいものであるという美意識。
路傍の石の如く、限りなく(「天」ではなく)「地」に近く「無」に等しい存在への憧憬・拝跪。

同時に、人は何者かに愛されることによって初めて何者かになる。その「ノーバディ」から「サムバディ」への(上昇)志向、欲求。

何者でもない「無価値」と呼ばれる人たちへの愛情と、「何者でもない」「無価値」な自分への絶望、苛立ち・・・

不幸な人がいる(または不幸な人たちを生み出してゆく)社会への怒り。
幸せな人たちばかりの社会を想像したときのおぞましさ。

ホームレスの悲しさ、唾棄すべき政治の棄民志向。
ホームレスのいない「クリーンな社会」への生理的な嫌悪感。

「幸福」は何故かく見苦しく「不幸」はなにゆえ美しいのか・・・

それは所詮わたしが、この世界に実質を伴って生きる者ではなく、外部から来た束の間の「旅行者」の眼差ししか持たぬ無責任な「ツーリスト」或いは'Invisible person'にひとしい存在だからなのだろうか。












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