2018年8月19日

自分を愛せない自己愛性人格障害者…


ここ二日ほど、「村上ラジオ」の影響で、いつもとちがった気分で、いつもと違った日記を書いてみたが、今日はまたいつもの、お馴染みの気分。
エミール・シオランの『生まれたことの不都合について』は、図書館に返却して、今度は別の作品を借りてきてもらった。書名は『絶望のきわみで』
やはりわたしには、村上春樹よりもシオランが似合う。



わたしは友だちのいない人をダメなやつだとは思わないし、彼らを負け犬と思ったこともない。
けれども、友達のいない「自分」は、やはり「惨めな敗北者」であり人間失格だという気持ちを拭い去ることができない。

これは、どんなに重い障害を持っていても生きる権利がある(無論死ぬ権利も)と思いながら、同時に、人の手を煩わせなければ何もできない障害者である自分は生きていてはいけないのだという思いに通じている。

どうしてこういう心理になるのか?

30代の頃、町沢静夫という「人格障害」を主に診ている医師に、「あなたは『自己愛性人格障害』だ!」と、絶対の自信と確信をもって言われたことが正しかったということなのだろうか?

町沢医師本人の著書によれば、「自己愛性人格障害」を一言でいえば、「自分は人並み優れた存在であり、人から愛され、讃えられて当然の人間である」という意識を持っている人間、ということらしい。

現在の主治医を始め、関わりのあった人たちから、「ここまで極端に自己評価が低い人は見たことがない」と言われ続けてきたわたしが、実はこころの奥底で、「わたしは優れた人間で、わたしの才能、わたしの美質が理解できない奴らがめくらなのだ」という意識の持ち主だというのか。

「友だちのいないわたし」を貶めること。
「障害者であるわたし」に絶望すること。

それは「友達のいない」彼や彼女を貶めることであり、
「障害を持つ」人たちを、救われない存在と認めることと等しいと考えられるかもしれない。

けれども、仮に論理の上ではそうであっても、「友達のいない孤独な彼」と「友達のいない孤独なわたし」とは、「絶対的」に「異質」の存在なのだ。

そのような思考が、どのような心理の綾に因って織り成されているのか、わたしにはわからないけれど。

ひょっとしたら、わたしは、その「無能さ」に於いて、その「無価値さ」、人としての「中身の空虚(空疎)さ」、そして、「決して」誰からも愛されることのない存在という点に於いて、他の追随を許さない「特別」(に劣った)人間であるという「自負」(!?)が、あるのだろうか?

だれかわたしと、この心理の綾取りをしてくれないか・・・













2 件のコメント:

  1. Nicoさんは気が強いでしょう。人前を恐れない心臓の持ち主ですね。もしかすると自信家なのかも知れません。それが何故(なぜ)なんだ、と問い続ける姿勢になるのだと思います。自信の裏付けは、豊富な知識と確かな意見ですね。たぶん、私はそこに惹かれるのでしょう。

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    1. 気が強い・・・う~ん。時と場合に因りますね。暴力的な感じの人は怖いですし。それ以外の人、所謂権威とか言われる人には物怖じしませんね。あと、医者には弱いですね。医者と関わるときには、常にこちらが「弱い」状態の時ですから。

      自信家。それもどうだかよくわかりません。根拠のない自信だと思います。
      根拠は豊富な知識と意見だといわれますが、「意見」はともかく「豊富な知識」はyy8さんの誤解、買い被りです。
      まぁみんなが勘違いしますけどね。中身が空っぽなのを知っているのは母と主治医とわたしだけ・・・

      いつも読んで頂いてありがとうございます。

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