2018年8月11日

断章


生きるとは、「生」を抱擁することではない。

その時代を、世界を拒否することを諦めることだ。

自分の外部、自己を取り巻く世界に「イエス」ということだ。



「時代と喧嘩しながら生きるのは、一個の特権である。四六時中、自分は他の連中のようには考えていないのだ、という自覚がある。この鋭い違和感は、どんなに貧弱な、不毛なものに見えようとも、なおある哲学的な定款を持っており、時代の諸事件と狎れ合った思考には求めようもないものなのだ。」
ー エミール・シオラン



「肉体を所有する者なら誰でも、堕地獄の人間という資格を要求できる。もしその上に<魂>などという災いを持っているのなら、どんな呪いの叫びでも堂々と発してよい!」
(同上)



「我が死後に大洪水あれ」とは、人それぞれのモットーである。他人が自分の死後まで生き続けるのをわたしたちが容認するのは、彼らに相応の罰があたるだろうという希望があればこそだ。」
(同上)

── 大洪水あれかしとは願うけれども、何故それが「我が死後」でなければならないのか?わたしはこの目で見たいのだ・・・
無論わたしも人間である以上、有罪であることは免れない。


2 件のコメント:

  1. もうNicoさんは、友達が欲しいなんて、思わなくなりつつあるのではないでしょうか。

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    1. いやいや。そういう気持ちが無くなることはないでしょうね。
      人間界を醜いとは思いますけど、友だちはやはり求め続けるでしょう。

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