2018年8月6日

8月6日 ヒロシマ


いまから16年前。2002年8月6日の新聞の切り抜きがある。77歳の男性の投稿である。




昭和20年8月6日午前8時15分、わたしは広島の第2総軍司令部で、将校として勤務していた。突如、閃光が走り、爆風に吹き飛ばされた。いったん失神した後、倒壊した建物の下から、かろうじて這い出した。爆心地から2キロ、まさに奇跡の命拾いであった。
 街は廃墟と化し、あちこちから火の手が上がり、焼けただれた男女が放心状態でさまよい歩いていた。中年の女性が私に近寄り、手にした牛乳の空き瓶を差しだして言った。「軍人さん、これにおしっこをくださいませんか。やけどに効くんです。特に若い人のは」
 ためらいはなかった。言われるままに物陰に身を寄せ、小水を採ろうとした。しかしいくらいきんでも、一滴も絞り出すことができなかった。あまりに大きな衝撃を受けると排尿もできなくなると知った。
 私は丁寧にわびるよりなかった。「すみませんでした」と、消え入るような声を残して立ち去る婦人の悲しそうな後ろ姿を忘れることができない。
 やがて黒雲が空を覆い、激しい黒い雨が降ってきた。放射能をたっぷり含んだ雨が。



ヒロシマ・ナガサキは、最早過去も過去という気配である。
この投稿をした男性も、本日、2018年8月6日、生きていれば94歳。「老人が一人亡くなるのは図書館がひとつ消えるのと同じ」とよく言われる。
これもまた、ひとつの図書館に収められていた記憶ー記録の一頁だ。

人の数だけヒロシマがありナガサキがある。
それを体験した人のみならず、そのことに深く心を寄せるすべての人の数だけ「原爆」がある。そして当時それを体験した誰もが、このような「話」を「出来事」を、そして深く抉られた傷を持っている。






2年前、2016年5月。バラク・オバマのヒロシマ訪問の「茶番劇」をみて心底情けなく思った。

とりわけ被爆者代表が、アメリカ大統領にやさしく抱きかかえられているシーンは、正視に堪えなかった。

オバマが広島を訪れる前に、アメリカ政府は「原爆投下について謝罪せず」という声明を発表しており、当然ながら日本政府も「アメリカに謝罪求めず」という姿勢を明確にしていた。

「これは一体なんだ!?」「何故こんなこんなことが許されるのか?」 わたしの頭の中は、そんな、かみ砕くことの出来ない「疑問」や「唖然呆然」とした思い、「馬鹿馬鹿しさ」そして「屈辱感」「恥辱感」などで占められていた。


同じ2002年の新聞記事に、広島平和記念資料館(原爆資料館)の元館長だった高橋昭博さんのインタビューが掲載されていた。

その前年、アメリカを震撼させた9.11のテロについて、「亡くなった罪もない市民の方々に対しては言葉もないが・・・」と述べた後「身勝手なことをしてきた米国に対し、溜飲の下がる思いも感じた」と、自身の率直な心情を語った。

14歳の時に爆心地から1.4キロの校庭で被爆し、全身に大やけどを負った。

インタビューの中の高橋氏の言葉が強く胸に響く。

「広島を訪れ原爆の非人道性を理解してくれる米国人は少なくない。だが、私の米国への思いは変わらない。原爆投下を正当化し、左手に核兵器を持ち続ける国と、右手で握手はできない」

高橋元館長のような真っ当な見識、真っ当な怒りを持つ人は、実は案外少ないのかもしれない。(時代と共に「少なくなってきた」のではなく、敗戦当初から・・・)

オバマ米国大統領に抱きしめられる原爆被爆者。その写真の下には「怒りなき者は、人に非ず」と、皮肉なキャプションをつけるべきだったのではないか。

◇       ◇

「原爆の図」Painted by Akiko Takakura, Image courtesy of HIROSHIMA Peace Memorial Museum.   









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