2018年8月2日

汝殺すなかれ(考える義務 Ⅳ)


「死刑制度反対」の意見に対する反論として、屡々目にするのは、「殺人犯に「血税」を使って、無駄飯食わせて生かしておくのか!」というものだ。

これは何も今に始まったことではない。引きこもりが社会問題として顕在化してきた当時も同じ議論が沸騰した。日本には既に敗戦直後ー1950年代頃から、この「働かざる者食うべからず」という一種の「ネオ・戦陣訓」のようなものが人々の心性に浸潤している。

7月31日の辺見庸のブログから引用する



寄稿


再び処刑関連原稿

「人びとはこれを望んだのか ── 気づかざる荒みと未来」と題する一文(7枚)を寄稿しました。共同通信から各加盟紙に配信されます。
ご一読ください。原稿の末尾で、村上春樹氏の発言(7月29日付毎日新聞)を批判しました。

氏は「『私は死刑制度には反対です』とは、少なくともこの件に関しては、簡単には公言できないでいる。『この犯人はとても赦すことができない。一刻も早く死刑を執行してほしい』という一部遺族の気持ちは、痛いほど伝わってくる」と述べている。

被害者感情と処刑(死刑制度)を同一線上でかたるのは、よくありがちな錯誤である。前者の魂は後者の殺人によっては本質的にすくわれない、とわたしは書いた。

にしても、村上氏の文には正直おどろいた。
「・・・林泰男の裁判における木村裁判長の判断に関する限り、納得できない箇所はほとんど見受けられなかった。判決文も要を得て、静謐な人の情に溢れたものだった」

極刑判決をほめたたえる神経は、わたしにはとうてい理解不能だ。



前回は案の定というべきか、共同通信加盟の東京新聞には「第一回目」のオウム殺戮の記事は掲載されなった。
掲載されたのは、「河北新報」「北日本新聞」「信濃毎日」「琉球新報」「長崎新聞」「大分合同新聞」など。十紙にも満たなかったのではないか。(わたしは「河北新報」を買った)

わたしは死刑制度には反対だ。それがオウムであろうとも。
そのことについては以前のブログにも書いているので繰り返さないが、
殺人者は生かして、犯行に至る背景や動機を徹底的に究明すべきだ。彼ら・彼女らはそのために生かされている。そして彼らのすべきことは考えること。深思すること。か細い一本の蜘蛛の糸にすがりながら己の深淵に降りてゆくこと。

もちろん犯行の背景、動機などがある程度明らかにされたとしても、それによって「貧困」が消えるわけではないし、この社会での生き辛さが目に見えて改善されるわけでもない。しかしそれを手がかり足がかりにしての改善の労を厭えば、同様の罪はいずれまた生起する。

わたしたち「全ての国民」が生きる場である「社会」の制度やその在り方について責任を負う国が、その鏡像ともいえる社会の内側で起きた罪に対し、「犯罪者」=「絶対的他者」として、「(正常な)われわれ」とはまったく異質の存在としてイレース(消去)するというやり方で排除し、その責任から逃れることは許されない。飽くまで生かして、「理由を問う」べきなのだ。それが何十年かかろうと。それが国としての責務だろうと思う。
国は、自らの社会の中で生まれた罪から目を逸らし、目に見える範囲に限定された「真っ当」で「正常」な社会から隔離、分離し、時至レバ消スというやり方を許されない。
社会という鏡に極悪人が映れば、手近な椅子を振り上げて鏡を破壊してしまえばいいと思っているのだろうか?
鏡面が眼の前から消えれば社会の罪も同時に消滅するとでも・・・?

国は罪人に対して、責を負う。彼らに耳を傾けなければならない。「何故?」と。
罪人は国民に対して責を負う。彼らに語らなければならない「何故」と。
そしてそれは「裁判」という形では充分ではない。(特に日本のように極めて人権意識の低い国に於いての裁判では・・・)だから彼らを生かしておく必要があるのだ。我々すべてが「深く考える」ために・・・



フィリップ・シーモア・ホフマン主演の映画『カポーティ』で、6年かかって殺人犯に取材し、『冷血』を書いたトルーマン・カポーティは、作品の三分の二を書き上げた時点で朗読会を開き、それが大評判になり、彼は成功を確信していた。けれども死刑の執行が延期になるたびに「犯人は処刑」という結末が書けない彼は苛立ちを募らせてゆく。
最後に、事件の調査・取材ではあるが、数年間に亘り語り合ってきた死刑囚ペリーの頼みで、絞首刑の執行に立ち会った。それ以降、彼は一冊の本も書いてはいない。
死刑賛成論者であったツルゲーネフも、1870年の死刑執行を見てから死刑反対の立場に変わった。ドストエフスキーも同様である。
フランスでの死刑廃止を決定づけたロベール・バダンテールもまたギロチンをその目で見ている。

日本では先ず、公開処刑をすべきだ。特にオウムの場合は。この点においてわたしは辺見庸と意見を異にする。

「死刑の光景は日本においては不可視であるがゆえにかえって幻想のスペクタクルとなり、無意識のうさ晴らし(娯楽)と化してはいないだろうか」

もし辺見の言うように、この国の人びとが、「可視化された処刑」を「サーカス」または「エンターテインメント」として興じるようなら。日本から永遠に死刑制度は無くなることはない。「ジャパン」は永遠に「邪蛮」だ。

・・・「日本」「永遠」と書いていて、ふとニ.二六事件で処刑された北一輝の言葉を思い出した。
「この国には永遠に革命は起こらない…」
cf『戒厳令』吉田喜重監督(1973年) 『叛乱』佐分利信監督(1953年)
「革命」とはなにか?「アンシャン・レジューム」(旧制度)を「変革する」ことだ・・・

どのような犯罪者であっても、いかに小さな可能性であれ罪を購う可能性を奪ってしまう権利は誰にもないのであって、「汝殺すなかれ」という戒律は、いかなる例外も許さない神の掟である。
ー ドストエフスキー

'Stop The Sinner To Die for Nothing!'  

”罪人を無駄死にさせるな!"







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