もしあなたがブログを書いているとしたら、こんな風に感じたことはないだろうか、
自分の言っていることはちょっとおかしいんじゃないか?どこか変なんじゃないか?
何故こんなことを訊くかというと、わたし自身、音楽やアートについて書いているとき以外、「そもそも人間が理解可能なことを書いているのだろうか?」という気持ちを、しばしば持つからです。
数人いるかいないかの訪問者たちも、実際は「狂者のうわ言」としか思っていないのではないか?
だって現に書いている本人が、「狂人のうわ言だな・・・」と感じているのだから。
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わたしがフォローしている、Kさんという同世代の女性は、わたしと、もう一人の、少し年上の女性が、月に1度ほどコメントを残すくらいですが、そんなことをまるで気にしている様子もなく、じつに淡々と、自分の気持ちをほぼ毎日、ブログに綴っています。
彼女は、「何処かにいる誰かのこころに届いているのではないかと思って書いています」と。
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嘗てリルケは書きました
誰が私に言えるだろう、私の命がどこまで届くのかを
けれどもわたしは知っています。わたしの声は決して誰の心にも届くことはないということを。
This is my letter to the world
That never wrote to me
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「これはわたしの、世界に宛てた手紙です
決して返事の来ることのない」
ー エミリー・ディキンソン
人間にとって、言葉は命と思います。
返信削除沈黙では、その存在さえ分かりません。
赤子でさえ、泣き声を上げて自身の存在を訴えます。
その声は、どこかで誰かが聞いています。
リルケの声は、世界中の心ある人に届いていますね。
リルケに、返事は届かなかったようだけど。
こんばんは、yy8さん。
削除「聞こえていること」と「理解する」或いは「共感する」ということは同じではありません。
リルケやディキンソンの声は、聞え、さらに理解され、共感され、愛されています。
けれどもわたしの声は?無宿者の声は、発せられるそばから揮発するか、地に零れ落ちるのです・・・