8月最後の日。今日も暑い。
先日、市の保健師と話したときに、「ではTakeoさんは、いまのドクターでは、或いは別の医者にかかっても、どうせ治りっこないと感じたから通院を止められたのですね?」と訊かれた。
そう訊かれるまでは、わたしもそのように考えていた。
精神科通院歴25年。現在の主治医との付き合いは約8年(?)それでもわたしの、所謂「生き辛さ」は改善・軽快するどころか、ここ数年は目に見えて悪化している。
しかし、わたしはほんとうに「よくならないから」医者に通うことを止めたのか、と考えてみると、実はそうではないのかもしれない。
このことは最近繰り返し書いているけれど、
「よくならないから」ではなく、「よくなりたいのか?」が解らなくなっている。
「よくなる」「元気になる」「外に出られるようになる」ということが、いったいわたしにとって、どういう意味を持つのかが、わからない。
今のような状態になったのは、2008年、ちょうど今から10年前に、生涯に唯一持った親友を失って以降のことだ。同時に、この10年間でわたしを取り巻く世界は文字通り激変した。
失われた友も、過ぎ去った歳月も、再び取り戻すことができない以上、「よくなること」「元気になること」が可能とは思えない。「再び」よくなることとは、わたしにとって「元通りになること」と同義だ。つまり「過去の再現」である。しかしいったい誰がそれを可能と考えるだろう。
これも繰り言のようになるが、「戦場での健康」刑務所や動物園での、「檻の中での健康」という概念は、わたしには存在しない。
そしてわたしにとって21世の世界、或いは日本は、正に「戦場」であり「格子なき牢獄」に他ならない。
健康とは、自己をとりまく世界・環境との友好的な「調和」であり「融和」だと考えている。そして「苦しみ」の原因は、自己と世界の美意識の不一致である。
外から電話を掛けることさえ一苦労な不便な世界。
腕時計を持たなければ街中に時計ひとつない不細工な世界は不愉快だ。
もし「現金」を使えない場所が増えるようなことになれば、わたしの世界はますます狭まってゆく。
極論すれば、「電子マネー」を使わなければ食料品が買えないとなれば、わたしは餓死することも厭わないだろう。
「スイカ」や「パスモ」などを使わなければ乗り物には乗れないというのなら、わたしは何処へも行かないだろう。友人の葬儀にさえ。(友人がいればだが・・・)
21世紀は人類が初めて体験するデジタルの世界。だからすべての人間が、ただ一人の例外もなく、また何の抵抗もなく、こんにちのデジタルワールドに溶け込むことができるとでも思っているのだろうか。
わたしは薬を含めたいかなる方法によってであろうと、自分の感受性、美意識を「変革」するつもりはない。
先日のニーチェの言葉を繰り返す。
「それがいい趣味だからでも、悪い趣味だからでもない。これが「わたしの」趣味なのだ。だからわたしはそれを恥じることも隠そうともしない」
9月・・・涼しくなるにはまだ一月はかかるだろう。仮にそれが年々短くなってはいても、まだ「秋のようなもの」は残ってる。けれどもわたしが失ったものは二度と再び巡っては来ない。そしていずれはまた、秋さえも。
Nicoさんの特異なところは、自身に埋没していない事ですね。
返信削除常にもう一人のNicoさんが、自身を客観しています。
もう一人のNicoさんは、誰ですか?
誰でもそうだと思います。自分を見つめる自己を持っているはずです。
削除もうひとりのわたしは、多分わたしの美意識でしょう。