予め断っておくが、以下の英文の引用の訳は間違っているかもしれない。
けれども、それが大きな誤訳であろうと大した問題ではない。
"Friendship is the agreement of two people against the whole world."
「友情とは、全世界に反抗するために二人の間で交わされた同意である。」
これは何と読むのかわからないが、ギリシャの画家 Giannis Tsarouchis の言葉である。
わたしの訳が誤りでなかったならば、これに勝る友情の定義はないと言い切ることができる。わたしはこれと全く同じ意味のことを8月5日の投稿で書いている。
一方でこのギリシャの画家はこうも言っている。
一方でこのギリシャの画家はこうも言っている。
これはわたしの深く共感するチャールズ・ブコウスキーの言葉に相当する。
◇
わたしはこのブログで大きな間違いを犯した。
「相手をより深く知ろう」としたのだ。
「人間というものは底知れず怖いものです。「人を理解する」ということも、ほどほどにしておかないと・・・」という山田太一氏の言葉もある。
過去にここにもらった多くのメッセージや議論、対話を否定するつもりは毛頭ない。けれども、その結果、わたしも、コメントを残してくれた人たちも、共に傷つき、決裂した。
無論その責任はわたしにある。
わたしは「孤独」から、画家の定義の1にこだわり過ぎた。
しかし結局・・・まったく当たり前のことだが、全世界・・・言い方を換えれば「現実世界」を向こうに回して・・・などという人間が存在すべくもなかった。そしてより現実的な第二の定義をおざなりにした。そしてすべてを失った。
画家の言葉、ブコウスキーや山田太一の言葉、これらは教訓でもあり処世術でもある。
処世訓など嫌いだと言っても、この言葉には明らかに真実が含まれている。
どんなに親しくとも、深入りは禁物だと。
山田氏は他でも言っている、人と人とが真に理解し合えるという考え自体が幻想だ、と。
加えて、パソコンのディスプレイという「非・言語的な情報」を悉く捨象した関係であってみれば、相互理解など絵に描いた餅でしかない。無論ディスプレイ上の規格化された「文字」だけでも理解は可能だと思う人もいるだろう。しかしわたしのように古いタイプの人間には、文字(言葉)+言葉以外の情報が組み合わさって、初めて「対人」になる。
仮に、万にひとつ、定義1が可能であったとしても、それはあくまでも、「その人が自分の目の前にいる」場合に限定される。
相手をもっと知ろうという欲求は、おそらくは、あまり賢明な考えではないのだろう。
今更「彼ら」に言われずとも、人間存在の底知れなさ、その闇は知り尽くしているはずではなかったのか。
尚、画家はこんなことも言っている。
"Do not separate my childhood from the life of an adult."
*
ー私は世を愛しなかったー
わたしは世を愛しなかった、
世もまた私を
彼らの臭い呼吸(いき)のまえに諂(へつら)ったこともなく
彼らの偶像の前に、恭しく膝を屈したこともない
心にない笑を頬に浮かべもしなかった
うつろな木魂(でく)を崇めて、高らかに叫んだこともなく
人群れの中にありながら、その仲間とは扱われなかった
彼らと交りながら、 ただ独り立っていた
屍衣(しえ)のように、 人と異なる思想を身にまとった
今もなお、というべくは、あまりに心屈して汚れたのだが。
私は世を愛しなかつた、世もまた私を
所詮、敵ならばいさぎよく袂を別とう
だが私は信じたい、彼らには裏切られたが
真実ある言葉、欺きえぬ希望があり
めぐみ深く、過失の穿を造らぬ美徳があると、
また、人の悲しみを心から悲しむものもおり
一人か二人かは、見かけと変わらぬものもあり
善とは名ばかりでなく、幸福とは夢でない、と。
ジョージ・ゴードン・バイロン「チャイルド・ハロルドの巡礼」
しかし「その人」が誰であるかを知ろうとしてはならない。
「あなた」が「その人」であるのかを、知ろうと急いてはならない・・・
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