2018年12月5日

スマホ問題について、okiさんのコメントへの返信に託して


oki2018年12月4日 20:39
うーむ、スマホなしの社会には出来ないし、戻れない。
するとごく自然に、Takeoさんが、スマホとどう順応していくか、という話になるように思うのですが〜。
スマホに順応しないと、一生今の状態を保たないといけないですよ、まあ離れ小島に行くという選択肢もありますが〜。
青梗菜さんのおっしゃる事は、ごく常識的だと思うなぁ。
僕の話は聞かないでいいけど、青梗菜さんの話は聞いといた方がいいですよ。



先日Amazonで買ったmp3プレーヤーというものが届きました。
開けてびっくり。ちょうど細長い名刺のような大きさで、薄さは(「厚さ」ではない)約5ミリ。それを見た時に、「現代人はこんなチャチなもので音楽を聴いているのか」という、なんというか、身体から力が抜けるような虚脱感に襲われました。(「ブルータス、お前もか!」という感じ)

一昔前のカセットやCDウォークマンであれば、カセットやCDを入れて再生ボタンを押すだけで、わたしのような機械音痴にも使いこなすことができました。でも今は、わざわざ音源をパソコンに取り込んでとかなんとか・・・幸いわたしには高校時代からの友人で、
コンピューターやAV機器に詳しい友人がいて、いつも彼に文字通り一から十まで面倒を見てもらっているのですが、仮にそういう人物がいなければ、わたしはもう屋外では音楽を聴けない時代に生きていることになります。こんなものが主流になればお年寄りも不便だろうと思います。

このような感覚の持ち主ですので、到底「現代社会で普通に生きていく」ことは困難です。
このブログに散々書いてきた「スマホ嫌悪」については、もうこの辺で仕舞いにしたいと思います。あれへの呪詛を書きつづければ続けるほど、逆に「あれ」への嫌悪・憎悪が、わたしの中に決定的に固着してしまうという危惧からです。

これは「誰かと話して」解決できるような問題ではありません。まして、それを憎んでもいず、あくまでも「架空の論(或いは「机上の論」)」としてしか語り合えない人とは、いくら話しても時間の無駄でしかありません。それは何も彼に限ったことではない。また「あれ」を持たない人でもない。「あれ」への憎悪を共有できる人物がいて、はじめて会話が成立するのでしょう。

わたしだって、たとえば鉛筆を憎んでいる人や、トイレットペーパー嫌悪の人と話すことはできません。そもそもその痛みや苦しみをわたしは彼や彼女と共有できません。
話し合いは共有される「痛み」「悩み」の次元で成されなければ始まりません。
仮に無理に話そうとすれば、わたしも彼らにとって、わたしにとっての青梗菜さんと同じ存在になるでしょう。
そう。「ごく常識的な人」に鉛筆を激しく憎む人の気持ちはわかりません。
ではありませんか?

わたしにとって必要なことは、このわたしにとって、まったく意味不明で不気味なマテリアルワールドを消滅させること。つまり、意識の上から消し去ることです。それができるのは医者でもカウンセラーでもない。先に書いたように、「世界の醜さを相殺できる何か、誰か、何処か」の存在です。具体的には友人であり恋人であり、心安らげる場所であり、夢中になれる何か・・・
その中で最も望ましいのはマテリアル・ワールトに拮抗できる生身の人間です。
そして「相殺してくれる存在」がなければ、早晩わたしは滅びるでしょう。

ところで、話は変わりますが、昔あるサイトで知り合った人と最近ちょっと話す機会があって、彼は、がんの画期的な治療法の発明にたいそう興奮しているようですが、わたしは彼ほど諸手を挙げて喜ぶ気持ちにはなれません。せいぜい片手を上げるくらいです。
がんが克服されれば、人類は今以上に「畏れを知らぬ存在」になるのではないか、という危惧の方が大きいのです。
そんなニュースに歓喜する彼をよそ眼に、わたしはある希死念慮の強い引きこもりの男性のブログに記されていた、「安楽に死ぬ方法がないという不条理」という言葉に深く肯くのです。


okiさんは

「無病息災で100歳まで生きられるクスリ」と
「苦痛も苦しみもなく眠るように死ぬことができるクスリ」の二つのうち、どちらを選びますか?
もちろんわたしは後者です。

わたしはあと5年くらいでもう充分です。

少なくともわたしはIT革命とやら以前の時代を、スマトートフォンなど存在しない時代に生きることができただけでも幸せでした。

コメントをありがとうございました。










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