2018年12月8日

ターニング・ポイント、または「性格とは運命である」


今日はなんだか、わたしの生涯のひとつの分岐点になるような気がする。

母に付き添ってもらって、最寄駅からふた駅、そこから歩いて10分ほどのクリニックに行ってきた。
今日の受診前に、ここ数日間、せめて過去1週間分くらいのブログ(コメント含む)を読んでおいて欲しいと主治医に伝えていた。

先ず、「ここ」でのやりとりについて、医師は「それぞれの言い分はわかる」としながらも、「普通の人はここまでやらない。途中で止めるだろう」=「長々と議論しない」という感想を漏らした。それはつい先日「いのちの電話」で、相談員がわたしと話していて、「ああ言えばこう言う。こう言えばああ言う」「理屈か屁理屈か、屁理屈なのか理屈なのか?」「単純に真っ直ぐなモノを無理に捻じ曲げ捻じ曲げて・・・」云々と評したのと通じる。

青梗菜さんにとっては甚だ迷惑な話だろう。深くお詫びします。

しかしこれに関しては、わたしはQ&Aサイトの「哲学カテゴリー」で、議論好きが、それこそ「ああ言えばこう言う」というやりとりを延々と繰り返しているのを知っているので、ある事柄について、ある主張や意見について、どこまでも掘り下げていくのが好きか、適当なところで終わらせるか、結局は「趣味の問題」(そして「時間の問題」「暇の問題」)であると思っている。

ただ、これはわたしの主観的な印象に過ぎないと断っておくが、主治医自身は、「いのちの電話」の相談員と同じように、こういうタイプの人間は、どちらかというと苦手・性に合わないと感じているという印象を受けた。「こういうタイプの人間」・・・つまり彼の目の前にいるわたしのようなタイプである。

そしてこれも主治医にとっては全くの誤解であり極めて不本意であると思われるかもしれないが、今日のやり取りで、わたしのような人間は、どちらかといえば人から敬遠されるタイプであると言っていたように、わたしには聞えた。

自分が人から好かれない人間であることは、今更誰に指摘されるまでもなく、当人が最もよく認識している。けれども改めて、長くわたしを診てきた主治医から「敬遠されるタイプ」と、念押しされると、流石に落ち込む。それが単に一医師の意見ではなく、おおよそその通りであることは理解していても・・・

しかし繰り返すが、これらのやり取りでのわたしの印象・感想は、あくまでわたしの偏見を通した主観的なものであって、決して「医師がそう言っていた!」というのではないということを改めて確認しておく。



さて、どちらかというとこちらが本題なのだが、
一連の「スマホ問題」について、コメントを寄せてくれた人たちが口々に、「なぜそこまで「スマホ」にこだわるのか?」「嫌いなら無視すればいいじゃないか?」と言い、外界と内面の区別だとか境界線などと言っているのがわたしには全く理解できなかったが、そのことを伝えると、「ふつうの人は、外界の情報を全て取り込んでいるのではなく、無意識に取捨選択しているんです」「嫌いなものは無視。これは心理学でいう「フィルタリング効果」といって、殆どの人はそれが見えていても、内面まで取り込まないようなフィルターを持っています」「ごく稀に、特に発達障害などを持っている人に、外界の情報を全て自分の内面に取り込んでしまう人がいますが・・・」
という説明をしてくれた。

外界と自己の境い目とか、嫌いなものは見なければいいという意味がまったく理解できないどころか、「嫌い=無視」なんてことがそんなに都合よくできりゃ苦労しないよと、反撥さえ覚えていたが、医師によると、殆どの人はそれが当たり前にできるのだと。わたしのように、目の前でスマホをいじっている人々の姿=醜悪さが濁流のように自己の内面まで浸水してくるということはないのだと。

つまりわたしは、ほとんどの人が当たり前に備えている自己防衛機能を持たずに生まれてきた。嫌なものから自分を防御する扉を、楯を、壁を持っていない人間なのだ。
であれば、嫌いなモノのイメージは怒涛の如くわたしの「内側に」押し寄せてくる。防ぐものがないのだから。

わたしが何故嫌いなものにそれほどまでに拘るのか、無視できないのかのメカニズムが解明されたような気がした。
無論これはあくまで主治医の判断であり、実際にレントゲンで調べて、「なるほど。確かにありませんね」「いや、小さいけれどもあることはありますよ」と言えるものではないのだが、この説明はわたしには合理的に思えた。

先に紹介した、わたしの過去の投稿に書いたこととも符合する
『「田舎者」と「都会人」、あるコラムをめぐって』

わたしはこの診断は、ほぼ正しいと思っている。

前に、ある統合失調症の女性のブログで言われた、「Takeoさんて嫌いなものがすごく沢山あるんですね」という言葉の意味も、今はわかる気がする。

これは先天的な障害で、生涯治ることはない。つまりわたしのスマホ=外界嫌悪も・・・

「人から避けられるタイプ」「嫌なものをシャットアウトする機能を持っていない」

ひとに好かれず、また、柵もフェンスもない無防備故、キライなものたちは、自由にわたしの内面に侵入してくる・・・

その上で、尚。尚。生き続ける意味とは?

つまり、苦しみ続ける意味とは・・・?


ー追記ー

この投稿でご迷惑をお掛けした方々。わたしの主治医、そして青梗菜さんはじめコメントをくださったみなさまに改めて深くお詫び致します。
しかし同時に、もう誰に嫌われようが同じことという気持ちもあるのです。ご理解いただければ幸いです。


きみはぼくの死だった──
きみをぼくはひきとめておくことができた
すべてがぼくから脱落したときも。
ー パウル・ツェラン「きみは」『パウル・ツェラン詩集』 飯吉光夫訳より(1975年)













4 件のコメント:

  1. >医師は「それぞれの言い分はわかる」としながらも、
    ふんふん。

    >「普通の人はここまでやらない。途中で止めるだろう」=「長々と議論しない」という感想を漏らした。
    をいをい、青梗菜は普通の人ではないと?w
    その通りだからいいけどっ♪

    >青梗菜さんにとっては甚だ迷惑な話だろう。深くお詫びします。
    ははは!w
    僕は途中でやめることもできたし。
    僕は扉を、楯を、壁を持ってるから。

    >『素敵で美しいものが好きだけれど、いちいち何かに感動したり、なにかを味わったりするのに疲れるような時もある。
    >新宿は、大切に丁寧に味わう必要のない気楽さがある。心や感覚を閉じたままでも歩いていられるし、そういう接し方を許してくれる場所であることに、大きな安心感を覚えるのだ。』
    これは僕もその通り。
    でもな、それを感動なんて言うな、と言いたい。

    >いちいち何かに感動したり、なにかを味わったりするのに疲れるような時もある。
    つまり、感動する機会を求めて歩けば、感動に出会えるわけだ。
    効率よく感動できるし、予定通り感動できる。
    都会ってのは、感動さえ手続きなんだな。
    手続きを感動って呼んでいるんだ。

    感動ってのは、不意打ちをくらって立ち尽くすようなものではなく、
    予定通りに会いに行くようなものなんだ。
    外側から内側に押し寄せてくるものではなくて、
    内側の期待通りに外側に用意されているものなんだ。
    映画でも、テーマパークでも、オリンピックゲームでも、
    予定通りの感動をもらって、
    「感動をありがとう」なんて言ってるもん。
    お礼の台詞まで台本通りだw。

    Takeoさんのほうが、まっとうだと思います。

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    1. 雨宮さんの本意がどこにあるかは措いておいて、青梗菜さんの意見には共感できます。

      >都会ってのは、感動さえ手続きなんだな。
      手続きを感動って呼んでいるんだ。

      これは必ずしも「都会」に限らないと思います。
      よく知りませんが、「自然」を「売り物」にして「集客」している田舎っていくらでもあるでしょう?
      ゆるキャラは必ずいるしね(苦笑)

      青梗菜さんの言っていることは、そのまま「現代社会」の様相を現していると思います。日本全国至る所「こんな感じ」じゃないですか?

      >Takeoさんのほうが、まっとうだと思います。

      雨宮さん(故人)に比べてではなく、また自画自賛でもなく、素のまま、生のままの人間ではあるでしょうね。


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  2. 良いお医者さんですねー。
    ちゃんとブログを読んでくださるとは。
    普通なら、忙しいから忘れた。とか言うところを。
    Takeoさんは、そのお医者さんにどのくらいかかっているのかな?
    立川もしくは、国立のお医者さん?
    母が、7年前まで、立川の北の上北台の特養ホームに入っていたので、多摩地域は詳しいのですよ。
    で、スマホ嫌悪は、自己防衛機能が働かないと。なるほど〜。
    Takeoさんは、自己防衛機能がない。と理解されているけど、それなら、今まで、まともに生きて来られないはずで、なんかのきっかけで、自己防衛機能が働かなくなった。と理解すべきかと。
    ということは、またなんかのきっかけで、回復することもある。と理解すべきで、つまりは、Takeoさん、また、まともに普通の人のように戻れると。
    はやくそういう日が来ることを念じていますよ。

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    1. こんばんは、okiさん。

      今の主治医にかかり始めたのは、わたしがこちらに越してきた年か、その翌年ですから、もう8年か、それ以上になるでしょうか。

      ここは以前の友達が、精神障害者の家族会経由で見つけてくれた府中市のクリニックです。

      >Takeoさんは、自己防衛機能がない。と理解されているけど、それなら、今まで、まともに生きて来られないはずで、なんかのきっかけで、自己防衛機能が働かなくなった。と理解すべきかと。

      ええ、そこが問題ですね。仰る通り、嫌なものが、全く防御壁もなく内面に自由に入り込んでくるなら、今までどうして平気で外に出られていたのか?

      わたしの理解では、やはり過去10年、つまりわたしが自由に外を出歩けていた2008~9年頃と比べると、今は全くと言っていいほど世の中の姿も人々の生活様式も変わってしまった。確か10年前はスマホなんて存在していなかったんじゃないですか?

      極端な話、人類史上ここまで激変した10年というのは過去になかったんじゃないか。あの戦争を挟んだ前後でさえ、東京の風景も、人びとの生活もさほど変わらなかったと思います。

      携帯電話が現れ、インターネットが徐々に普及し始めても、激変というほどではなかった。

      わたしは「スマホ」に象徴されるIT王国についていけない個体なのだろうと思います。また仮に「デジタル機器」を除外しても、やはりこの数年の東京の変貌ぶりはすさまじい。

      でも現実に、ほとんどの人は、当たり前にスマホを必需品として持っている。誰も「変化」に抵抗しない・・・というか、抵抗がない。

      逆にわたしは「自己防衛機能」が強すぎるが故に、あまりに自分の感受性と異質な現代社会と融和できないのでは、とも考えます。

      いずれにしても、単に「防御壁」のあるなしだけの問題ではないように思います。

      色々と考えて下さり、また親切なお言葉に感謝します。





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