2018年12月16日

議論好きが嫌われる国で・・・


きのうわたしは、

「世界がわたしに与えることの出来るものは、予めわたしの持っていたもの以外にはない。」

読書とは、また他者との出会いとは、すべからく自己との出会いに他ならない。」

と書いた。

今日、母が借りている木村敏の『人と人との間』ー精神病理学的日本論ー(1972年)
をめくっていたら、こんな箇所にぶつかった。

「個人が個人として、つまり自己が自己として自らを自覚し得るのは、自己が自己ならざるものに出会ったその時でなくてはならない。自己がこの世で、自己以外のものに出会わなければ、「自己」ということがどうしていえようか。自己はあくまで自己でないものに対しての自己である」(第一章「われわれ日本人」)(下線は本書では傍点)

わたしは(おそらく)モノローグ(独白)よりもダイアローグ(対話)が好きなのだ。
わたしは反論を厭わない。何かしら「答え」らしきものを見つけることは二義的なことで、「対話」それ自体に「愉しみ」があると思っている。

わたしは所謂「権威」と呼ばれる人であろうと、疑問は疑問としてぶつける。違うのではないかと思えば、そのように伝える。けれどもそのような機会は、一般には、講演会の質疑応答の時間くらいしかない。

上記の「自己」と「非・自己」の問題についても、木村敏氏に直接疑問をぶつけることはできない。だから、日常的にこのような議論が出来る環境が望ましいのだ。

この本の第一章「われわれ日本人」は、このように書き出される・・・

「数年前、ドイツに住んでいたころ、友人のドイツ人がこんな話をしてくれた。彼がごく親しくしていた日本人の哲学者といっしょにレストランで食事をしていたとき、この日本人は料理が気に入らず、「これはわれわれ日本人の口には合わない」と言った。そこでドイツ人の御多分に洩れず議論好きの彼は、変なことを言うなよ、味覚ってのはまったく個人的な好みのものなんだぜ、「われわれ日本人の口には」なんて言い草があるかい、といってこの日本人哲学者に喰ってかかったというのである。」
(下線Takeo)

フランス人は議論好きとよく聞くが、ドイツ人はなんとなく寡黙で実直、どちらかというと、不言実行という日本人的なタイプかと思っていたが、なるほど、言われてみればドイツ=哲学の国である。(日本は「アンチ・哲学」の国)議論好きと言われればそうかとも思う。



最近とみに思うのは、なぜ「彼ら日本人」は、議論を好まないのか、なぜ議論好きを「理屈っぽい」「グダグダと屁理屈ばかり」「ああ言えばこう言う」・・・etcと、ある意味敵視さえするのか?
わたしはどちらかというと「ああ言えばこう言う」のが好きでたまらないタイプである。

日本人は議論が嫌いであり、だからこそ、当然議論が下手である。
昨日紹介したHさんのように、和やかにどこまでも対話ができる人はほとんどいない。
自分を棚に上げて言うのだが、先ずすぐに感情的になる。これはおそらく、太宰治の言う「確信の強さ。自己肯定のすさまじさ」に由来するのだろう。彼らは反論されることの快さを知らないのではないか。確かに「理屈っぽくてイヤだな」と感じることはわたしにもしばしばある。その主張の背後に、自信、確信のようなものが匂ってくると厭になる。
何度も言っていることだが、わたしは自信のある人が嫌いである。迷いのない人、自己を疑うことのない人が苦手である。

加えて、「われわれ日本人」はどうしたって悪い意味での田舎者である。わたし自身を含め、ユーモアのセンスというものに決定的に欠けている。
ユーモアの欠けたところに上質の議論・討論(対話)は生まれない。

「ユーモア」というのとは違うかもしれないが、Hさんは飄々としている。自説に固執しない。相手の意見(反論)をおもしろがれる余裕がある。相手を言い負かそうという気負いがない。毒々しさも刺々しさもなく、あくまでも柔和で柔軟であった。現実にわたしを含め彼を慕う人は多かった。

Hさんは夙にブログから離れてしまったが、ひょっとしたら、彼のブログはある意味わたしにとって理想的なブログであったかもしれない。ああでもないこうでもないというやりとりのないブログのある種の不毛さを感じさせられる。



議論好きが嫌われる傾向にある文化・・・とはいえ、わたしが人から好かれないのは、単に「口の減らないやつ」という理由ばかりではないだろうということは感じている。

何故わたしは嫌われるのか?

実はそんなことを2007~8年当時、Hさんのブログでそれこそ延々と語り合った。
そして今でも相も変わらず、そのことを考え続けている。

わたしのことは措いて、「議論が嫌い」な「彼ら日本人」は、人生の大きな愉しみのひとつを摑みそこなっていると思えてならない。

以下、Hさんの2007年のブログから、当時のわたしとHさんのやり取りを抜粋して紹介する。

◇    ◇


T:Hさんは北海道にお住まいだったんですね。
直に紅葉の時期でしょうか・・・

うらやましいな・・・

どのようなところにお住いか存じませんが、
自然の豊かな場所だったら、
夕刻、沈み行く太陽と雄大な自然を肴に一献傾けて、諸々のお話をしてみたいです・・・
人生や、芸術や、文学について。

BGMは私の好きなJAZZでもいいし、
オペラのアリアでもいいかもしれません。

バックグランドミュージックなどなくてもいいかもしれない・・・
風のささやき、木々のさざめき、虫の音だけで。

・・・そういう同性の友を持ったことのない私には憧れです。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


「自分らしさ」とよく口にします。
「自分らしく生きる」

でもその「らしさ」のモデルっていったい何でしょう?
とても曖昧な言葉だと思います。

先日あるドラマを観ていて、
老いた今、ある男性と知り合ってときめきを感じている。そして過去の自分を振り返って、
「・・・自分じゃないみたい・・・」というセリフが何故か印象に残っています。

私は私であったのか・・・
私は私であり過ぎていたのではないか・・・

嘗て「まるで自分じゃないみたい!」なんて体験をしたことがあるだろうか・・・

私の求めている「自分らしく」「私らしく」
というのは、
これまでこれが自分だと思い込んで、そのように作り上げられてしまった「自己」からの解放なのかもしれない。

「自分じゃないみたい」な感覚を味わった時に初めて本当に自分を実感することが出来るんじゃないか。

・・・そんなことをぼんやり感じています。

Hさんと一杯やってるつもりで、
無駄口を叩きました(苦笑)


P.S

king Of Blue もいいですね。

Posted by Kind of Blue (LB) at 2007年09月28日 04:00



H:KBさん、どうもこんにちは。
なかなかいける口みたいですね。
私もかなり好きなほうですが、若い頃と比べると格段に酒量は落ちています。
北海道というと自然というイメージを喚起される方が多いのですが、どこにでも熊が出るわけではありません。^^;

>私の求めている「自分らしく」「私らしく」
というのは、
これまでこれが自分だと思い込んで、そのように作り上げられてしまった「自己」からの解放なのかもしれない。
:まさにおっしゃるとおりでしょうね。
結局は納得できるか否かということだと思います。
自然のままに伸びる生命には不満はあっても納得できないことは無いと思われますし、納得できないには必ずそれなりの環境が作用しているわけでしょう。
「自分らしさ」は色々な解釈ができるのでしょうが、
本来的な自己とは、過剰でもなく過少でもなく、「ただ在る」というだけのものだったはずで、しかもそれで十分ではなかったのかという気もしますね。
次第に日本酒のうまい季節になってきます。
Kind of Blue さんはウィスキー党のような印象も受けます。
パソコンの向こうで一杯酌み交わしながら語り合える。
便利な時代になったものです。
くれぐれも飲みすぎにはご用心を。
お越しいただきありがとうございました。

Posted by hakobulu at 2007年09月28日 13:58


ー追記ー

Hさんのブログに出入りしていた頃の自分の言葉を読み返してみると、
おそらく今でも変わっていないであろう、ある「かたくなさ」を強く感じる。


最後にもう一度、木村敏の文章を引用する

ハイデガーも言うように、われわれは自分自身がこの世の中に存在するという事実の根拠を、決して自分自身の手に引き受けることができない。われわれがこの世の中にあるという事実は、われわれ自身にとっては、実は一つの負い目に他ならない。われわれは、自分自身の存在を負わされている。

「かりそめのこの存在の時をおくるには / 他の全ての樹々よりもやや緑濃く / 葉の縁(へり)ごとに(風のほほゑみのやうな)さざなみをたててゐる / 月桂樹であることもできようのに / なぜ、人間の存在を負ひつづけなければならぬのか ──」とリルケは歌う(『ドゥイノの悲歌』第九 手塚富雄 訳)そしてまた、「地上に存在したといふこと、これは取り消しやうのないことであるらしい」(同)と言い、「それゆえわれわれはひたむきにこの存在を成就しようとする ── 地上の存在になりきらうとする」(同)と言う。

われわれは常に、取り消しのつかない事実としてこの世に生きており、しかもこの存在の「成就」には後れをとっている。つまり自己を完全に自己のものとして引き受け、本来の自己自身の存在になりきろうとして、果たせないでいる。われわれが人間として存在するということ自体が、すでにまったく未済的性格を帯びている。
『人と人との間』(第二章「日本人とメランコリー」)





2 件のコメント:

  1. 和を以って貴しとする風土では、議論好きは嫌われる。
    けど、学問の世界では、徹底して議論する事が求められますね。
    Takeoさんは、学者とかになろうと思ったことは?
    僕もねえ、なろうと思ったんだけど、当時の学科の主任教授が、ちょっと変わっていて、学生をえり好みするとか、学生をそもそも指導しないとか、いろいろあって、「oki君も、カントアーベントとかに出なければな」とか言うけど、分からない。当時は、ネットなんてなかったし、学科でカントなんてやっていたの、僕だけだし〜で、良く分からなくて遊びはじめたと。
    それはともあれ、聖徳太子の、和を以って貴し。も、別に国民に言ったのではなく、当時の官僚機構の中での話だとか。
    木村敏ですか、古いの読んでおられますねー。
    自己とか、自己ならざるとか、明らかに西田幾多郎の影響を受けてますよね〜。
    西田哲学「自己の悲哀の底から哲学は生まれる」と。
    Takeoさんの哲学も面白いなと。

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    1. こんばんは、okiさん。

      いやあ学者になろうなんて思ったことないですね。第一勉強が嫌いだし(出来ないし)
      わたしがなりたかったのはラジオのディスクジョッキーでした。
      マスコミ業界に憧れていたのではなく、あくまでも「ラジオのDJ」
      おしゃべりが好きだったし、音楽が好きだから。

      どんな仕事でも、結局はいい先輩や仲間、そして特に研究者などでは良き師に恵まれるかどうかが大きく影響しますね。

      どんなことでも自分個人の力だけでは上手くいかない。

      わたしの好きな言葉に「芸人は下手も上手いもなかりけり 行く先々の水に合わねば」というのがあります。これも個人の実力以上に人との繋がりが大事だということでしょうね。
      この言葉は林家彦六師匠の落語で知りました。(カセットです(笑))

      西田哲学は知りませんが、木村敏も京大ですからね。影響は受けているでしょうね。

      わたしの哲学ですか。ははは、面白がっていただければなによりです。

      コメントをありがとうございました。

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