2018年12月15日

世界がわたしに与えられるのは、予めわたしの持っていたもの以外にはない


来週火曜日、18日に新宿紀伊国屋ホールで行われる、作家辺見庸の講演会に行けそうにない。今回の講演は、相模原の障害者殺害事件に想を得た長編小説『月』の出版に合わせての講演で、主なテーマは「障害とは」「健常とは」/ 「生きていていい生」と「生きていてはいけない生」があるのか? / 死刑制度とは国家による「生きていてはいけない生」の選別ではないか / オウム事件と死刑=国家による殺戮について・・・など、興味深い内容ばかりだが、体調はおもわしくなく、年の瀬の寒さは、文字通り「秋霜烈日」という厳しさで、肌身に堪える・・・

わたしは中央線の立川から数駅のところに住んでいるが、快速で約1時間。特快で約40分。現在の心身のコンディションで、この区間を往復することを思うと尻込みしてしまう。

Q&Aサイトで、「中央・青梅ライナー」などを含む「特急」を利用してはどうか、新宿の次が立川で、料金はどれも510円だと教えてくれた。
講演の内容を想えば、乗車券と合わせて、片道約1000円。往復2000円は惜しいとは思わないが、それでも尚、出られそうにない。



本を読めなくなって、もう数カ月が経つ、その間に『月』も出版された。地元の図書館にも6冊入った。早速借りたが、既に予約が入っていた。とても2週間では読めないので、ページを開くことなく返却した。
普段は誰も辺見庸の本など借りていないのに・・・

辺見庸の本は、小説、詩集を除いて殆ど読んだ。本は借りて読むことにしているが、気に入ったものだけ、5冊ほど購入した。ほとんどアマゾンで1円で売っていたものだ。(送料250円)

本を読んで世の中を見る深度が深まる、茫漠とした物の輪郭が鮮明になるということはあっても、それによって世界の見方(見え方)が変わるという体験をしたことが無い。
辺見庸がわたしに与えた影響は少なくないが、それは彼の著作を通じて、もともとわたしの内側に潜んでいたものに形を与えられたという点にある。

読書とは、わたしにとって、己の内面深く沈んでいたモノの発見であって、決して、外側から手渡されるものではない。
世界がわたしに与えることの出来るものは、予めわたしの持っていたもの以外にはない。
本は、わたしの中にあるが、自分では手の届かない泉から掬い取った水をわたしに与えてくれる。
本が与えてくれるのは「鍵」であって、宝の箱は与えてはくれない。

・・・言い換えれば、読書とは、また他者との出会いとは、すべからく自己との出会いに他ならない。



昨日の投稿を読み返すと、昔やり取りのあった人のブログに書きこんだコメントの引用部分以外の記述がどうしても生煮え・・・熟考されていないように感じられる。
これはやはり本が読めなくなっている状態と思考力の低下が連動しているのかもしれない。
今のような状態の時こそ、研ぎ澄まされた白刃のような思考力が必要とされているのだが・・・

このような時に思考の手掛かりとなり得るであろう講演に参加できないことがいかにも残念だが、これ以上体調を崩しては元も子もない。



=追記=

このようなやりとりがない独り言というものは虚しいものだな・・・
こういうのを読んでると、また「それは違うよ」と言ってくれる誰かが欲しくなる。








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