2018年12月7日

告解(わたしは憎む者「差別者」である)


仮に「いつまでも引きこもっていてもいい」といわれても、生きてる間は衣食住に不自由しない境遇であっても、そもそもわたしには、「今の時代を生きる」ということが、どうしても不可能なことに思えてならない。

一方、多くの「引きこもり」の人や、社会不安障害などで、働けない、人が怖くて外に出ることすら難しいという人達にとって、彼らが望むのは、決して安心して引きこもれる環境ではなく、寧ろ、「みんなのように」「普通に働けるようになること」なのだろう。
つまり彼らの希望は「障害」が「治癒」すること。「元気になること」「皆と同じようになること」のようだ。

そこに彼らとわたしとの決定的な断絶がある。

わたしがいまだにわからないのは「元気になる」とはどういうことか?
「障害が治癒する」とは何を意味するのか?
「病んだ世界で元気である」とはどういう状態を指すのか?

「元気になりたいと思わない」というのではない。
「元気になることは不可能である」と言っているのだ。



そのことに関連して、先に「社会の敵、つまり、あなたの敵…」でやりとりした人のブログにわたしの本心を記した。


認めます

こんばんは。

わたしが「スマホ」や「タブレット」を理由もなく憎んでいること。
それを使っている人間を軽蔑・・・というよりも「嫌いである」こと。
「愚かであると思っている」こと=(それを使わない自分に比べてではなく)
彼らを「衆愚」であると思っていること。そして彼らが「それらもろとも滅びればどんなにいいだろうと考えていること」

そしてそれがヘイトであるというのなら、それを「ヘイトである」といってくれて構わないということ。

わたしがその点で差別主義であるというのなら、そう言われることを受け容れること・・・

以上わたしの本心を認めます。


2018/12/06(木) 19:15:50 Takeo


以下若干の修正・補足を

「わたしが「スマホ」や「タブレット」を理由もなく憎んでいること。

これは

「わたしが「スマホ」や「タブレット」を正当かつ妥当な理由もなく憎んでいること。

「それを使っている人間を軽蔑・・・というよりも「嫌いである」こと。
「愚かであると思っている」こと=(それを使わない自分に比べてではなく)」

愚かであると思っているということは、軽蔑していることと同義である。

「わたしがその点で差別主義であるというのなら、そう言われることを受け容れること・・・」

「自分が差別主義者であるということは意外な発見でしたが抗弁の余地はないようです。」

わたしは別に何らかの主義や信念に基づいてスマホやタブレットを忌み嫌っているわけではないので、
これは
差別主義者」ではなく「差別する者」「ヘイトする者」と改めます。


このように、わたしは「現代」を憎んでいる。その憎悪の対象である世界の只中にいて「元気である」ということは、そもそもあり得ない話ではないか?

N'est ce pas?  (isn't it?) 




ー追記ー


<「嫌うこと」と「差別」の違いとは?>

昨年10月に、わたしがQ&Aサイトでした質問です。

当時から既に体調が万全ではなく、最後まで納得のいくやり取りができなかったことが悔やまれます。

わたしの中では何もかも、ここ数年のうちに変わってしまった。(この質問でも、既に回答にお礼・返事を書く気力・体力も無くなっていたということ。そして何よりも、「嫌うこと」と「差別すること」の違いについて皆に問いかけていた頃、わたしが「スマホ」をここまで「嫌い」「差別する」当事者になろうとは思ってもいなかったということ・・・)そして尚、現在進行形でわたしは変わりつつある(悪化している)。
いったいこの先どうなるのだろうという恐怖と共に、これを改めて読み返しています・・・














8 件のコメント:

  1. Takeoさん、青梗菜さん(もう見てないのかな?)こんばんわ。

    これは、ちょっと違うような気がするなぁ。

    第三者が口を挟んでいいものかどうか迷ってしまいますが、意見が食い違っているというよりも、意見や感情がすれ違っているようにい見えますよ。

    客観的にみていると、Takeoさんも青梗菜さんも似通ったことを言っている部分はたくさんあるし、それほど決定的な問題でもないような気もするんですけどねぇ。

    もしも、Takeoさんが「差別する者」だったら、たぶん、僕は話ができなかったはずです。
    なんたって、ぼくは、ものすごく「差別」が嫌いなんですねぇ。
    しかも、Takeoさんの「スマホ嫌い」と同じで、完全に「生理的に嫌い」なんですよね。
    だから、「差別の匂い」だけでも、たぶん、近づかなかったと思いますよ。
    しかも、ブログを始めて4年半くらい経ちますが、ぼくがブログを通じて頻繁にやり取りしたのはTakeoさんが初めてですから、ありえないと思いますね。

    だって、ぼくがTakeoさんのブログにコメントを入れようと思ったのは、このブログの中に『ホームレスの人を見ると会釈してしまう』という一文を見たからなんですから。
    やっぱり、ありえませんよね。

    「差別」は上から下へ向かって行われるものだと思いますよ。
    人種差別というときに「支配的な立場にある人種」が行うのを「差別」というのであって、「支配されている側の人種」が「支配している側の人種」を嫌ったとしても、それを「差別」とは言わないですよね。

    この場合、「スマホを持っている人」と「スマホを持っていない人」の間に、社会的あるいは客観的な上下関係があるわけではないので、下から上でもないと思いますが、少なくとも上から下に向けての「差別」とは違いますよね。
    どちらかといえば、「多勢に無勢」という意味において、「やや下から上」ではあると思います。

    ただ「ヘイト」と言えばいえるかもしれません。
    でも、「たぶん」ですけど、そこのところは、Takeoさんにとって「修正可能」な範囲にあるんじゃないですか?
    つまり、そこまで罵しらなくてもいられるんじゃないかと思いますけど、どうなんでしょう?
    今は、「スマホに対する憎悪」が爆発的な状態になっているだけで、それは一時的な感情の問題のような気がしますよ。
    まぁ、頭に来ていたから言いすぎてしまったという部分もあるんじゃないかなと。
    喧嘩しているときに穏やかな人なんていませんし、いたとしたら、むしろ怖いですよ。
    (「青梗菜さんと」じゃなくて「スマホに象徴されるような社会の病理と」喧嘩してるわけですね)

    あえて、言えば他人のブログで、それを言ってしまったということが「ヘイト」になるんじゃないかと思いますね。

    それから、Okiさんがおっしゃっている『Takeoさんにとって、変わるいい機会』というのは、あるかもしれませんが、それはTakeoさんにとって、もうずいぶん昔からずっと続いている「変わる時」なんだと思いますし、それに、青梗菜さんにも同じことがいえると思いますよ。
    というよりも、「すべての人」が「すべての時」において「変わる時」なんじゃないかと思いますね。
    「変わらないでいられる人」はいませんよね。

    もしも、青梗菜さんが『自分は何一つ困ったこともないし、完璧だから変わる必要はない!』と言うのなら別でしょうけど、そんなことは言わないわけでしょう?
    『とりあえず、今は困ってない』というくらいなら、やっぱり「変わる時」であるともいえるわけですから、同じだと思いますね。

    誰にとっても「変わる時」でいいような気がします。
    それが、いちばん平等でしょ? 

    それに、Takeoさんだって、青梗菜さんだって、このやり取りをしたことで、「すでに変わっている」というのが本当だと思いますよ。

    そこに「前向きに変わった」とか「症状が改善した」とか「外に平気で出られるようになった」とか、そういうあまりにも都合のいいことを思い浮かべるのも無理があるような気がしますね。

    『多少くらいなら、悪く変わってもいいじゃないか、きのうと同じじゃなければ』というよな緩さがあっていいような気がしますよ。

    自分のことで恐縮ですが、ぼくなんか毎日どっちに進んでいるのかもわかりませんし、何のために、いったい何をしているのかもわかっていませんが、それでも、毎日変わり続けてはいるわけで、それを止められないからやっているということです。 

    あと、前にTakeoさんに「死ぬ理由」について聞いたことがありますが、確か「生きる意味の喪失」であり「帰郷」に近い感覚だとおっしゃっていましたが、もう少し明確な意味がないなら、それは「死ぬ理由」にはならないような気がしますよ。 

    まず、人間は「死ぬこと」はできますが「消えること」はできないと思います。
    過去の自分も含めて「自分」という存在を消すことはできないと思いますよ。
    「自分の意識」がなくなっても、「自分」を消したことにはならないと思いますし、「肉体」を失うことはできますし、「意識」も失うことはできますが、「完全に消えること」はできません。
    それには「死ぬこと」ではなく「生まれないこと」が必要ですから。
    でも、「生まれないこと」でさえも「消えること」ではありません。
    初めから、いないわけですから、「消えること」もできないですね。

    でも、Takeoさんが望んでいるのは、その「消えること」なんじゃないかと思うんですが、どうでしょう?

    要するに、Takeoさんは「消えること」もできないし「明確な死ぬ理由」も見つけられないから、生きているんだと思いますよ。

    今の世の中がいかに醜悪であっても、それは「死ぬ理由」にはならないような気がしますね。
    おそらく、「醜悪な世の中」ではなく「美しいものが一つもない世の中」になれば、それが「死ぬ理由」になるんじゃないでしょうか?
    たぶん、そんな世の中には誰一人耐えられませんから。

    話が長くてすいません。
    本当はTakeoさんに「戒律」ということについてお聞きしたかったんですけど、また別の機会にします。

    では、また。




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    1. こんばんは、ふたつさん。



      >ぼくがTakeoさんのブログにコメントを入れようと思ったのは、このブログの中に『ホームレスの人を見ると会釈してしまう』という一文を見たからなんですから。



      現実にほとんど外に出ないし、この辺りにはホームレスはいないようです。それに現実に「会釈をする」かどうかは正直わかりません。ただ意識の上で、心の中で、というニュアンスで受け取ってもらった方が正確だと思います。



      >「支配されている側の人種」が「支配している側の人種」を嫌ったとしても、それを「差別」とは言わないですよね。



      あのQ&Aをご覧になったということですが、本当に「差別観」というものは人それぞれだなぁと思いました。2ページ目で、わたしのネット上の友人の女性が、「弱者による強者叩きが厭だ」と書いてありましたね。わたしとは正反対ですが、付き合いが長いので、彼女の意見には傾聴すべきものが多くあります。

      (結構ぶつかりますけどね)



      あの中では、明らかにおかしいという意見は見当たりませんでしたね。

      ただそれを「差別」というかどうかは別にして、わたしは常に、より弱い者、より低い者、より小さな者、より困っている、苦しんでいる側に居たいと思っています。

      である以上、語の定義はさほど重要ではないような気がします。



      >ただ「ヘイト」と言えばいえるかもしれません。

      でも、「たぶん」ですけど、そこのところは、Takeoさんにとって「修正可能」な範囲にあるんじゃないですか?



      「修正」とはなにを修正するということでしょう。わたしの憎悪でしょうか?

      では感情の修正によってもたらされるものって何でしょう?



      >(「青梗菜さんと」じゃなくて「スマホに象徴されるような社会の病理と」喧嘩してるわけですね)



      それはそうです。下のコメントでの指摘にもあるように、わたしは余裕がなくなると、誰に対してでも口調がきつくなるようです。自分では平静に、普通に話しているつもりでも、読み返してみると、これじゃ相手も、嫌な気分になるか、ムキになるか、傷つくか・・・そんな印象を我ながら持ちました。

      とはいえ、余裕がないということは、それだけ真剣だということだとも言えると思います。ムキになって怒っている。太宰最晩年の『如是我聞』のようです。



      「変わる」ということへのふたつさんの意見がちょっとわからないのですが、わたしが、青梗菜さんが、そしてふたつさんが、「変わる」とはどういうことなのでしょう。わたしは基本的に「変化」を嫌います。それは「古いほどいい」という価値観に通じていると思います。「古いもの」=いいもの、「新しいもの」=ノーサンキューという姿勢です。わたしにとって「進歩」とは「退歩」であり、「頽廃」とは「進歩」です。この姿勢はわたしの文章に終始一貫して貫かれているスタンスであり価値観です。

      これも「キツイ」言い方だったら、申し訳ありませんが、わたしにとって「変わる」とはどちらかというと、マイナスのイメージを伴う言葉なのです。

      「死ぬ理由」についても、ふたつさんの言われるように、細かく分析しているわけではないので、何とお答えしたらよいのか。なんというか、もっと感情的な衝動であって、このように「理由」や「死というもの」を言葉にするというところにはさほど関心がないのです。

      色々と反論めいた言い方になってしまっているかもしれませんが、気分を害されませんように。

      わたしなりに「真摯に」お答えしたつもりです。
















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    2. Takeoさん、こんにちわ。

      このブログはいつも見ているんですが、このところ時間の都合でコメントまでは残せません。
      それで、この返信にも気が付きませんでした。

      まず、「会釈=心の中での会釈」は、ぼくも同じ考えです。

      それから、「Q&Aサイト」に関しては、はっきり自分の意見と違うと思ったことが一つあって、「差別」を「区別から発生するもの」としている意見は僕の意見とは逆でした。
      つまり、ぼくは「区別」が明確であると「差別」は発生しにくくなると思っていて、
      「違うモノ」を「同じように扱おうとすること」によって「差別」が生まれると思っています。
      例えば、アメリカでの「黒人差別」は、奴隷解放後に激しくなったといわれています。
      もちろん、だからと言って「奴隷」のままの方がよかったということではありませんが、「同化の過程」で「差別」が発生するということです。
      「白人」と「黒人」を無理やり「同じ」としようとすると、必ずその「同じ」を受け入れられない人が「ヒドイ差別」をするようになります。
      それぞれの「人種特性」や「文化の違い」を「区別」する方が、むしろ「差別」が激化しにくいと思うわけですね。

      ただこれは、「差別」を完全に防ぐことができるという意味ではなく、「あまりにも過酷な差別」に陥らないための話ということですけどね。

      それから、「変わること」についてですが、ぼくにとって「変わること」は、「存在すること」とほぼ同じ意味です。
      まぁ、『万物は流転する』と同じような意味だと思ってください。

      そんな途方もないことは、説明することができませんが、
      『じゃ、言うなよ!』
      『どうもすいません』
      『そんな感じ?』ということですね。

      あと、「修正」といったのは「Takeoさんの感情や思想」について言ったのではなく、もっと単純な「言い方や話し方」のことです。
      要するに、『「スマホ」に対して、そこまで攻撃的な言い方をしなくても居られるのでは?』と思ったわけですね。
      つまり、Takeoさんが「スマホ」を嫌悪していても、それを「攻撃的な表現」で表す必要はないように思ったということです。
      というか、それはTakeoさん自身が、それほど望んでいないことのように思いましたよ。
      少なくとも、自分と敵対する要素がほとんどないような人が、たまたま「スマホ」を持っていた場合に関しては、ということですね。

      以上、お返事が遅くなってしまい、失礼いたしました。

      それでは、また。


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    3. こんばんは、ふたつさん。

      「差別」と「区別」について、
      >「区別」が明確であると「差別」は発生しにくくなる
      というのには同感ですが、逆に「われわれと違う」ということが「差別の源泉」にもなり得ると思います。
      「区別」でも「差別」でも、自分と別のものに(特に日本人は)狭量です。
      だから「区別を明確に」することと、それが「差別に変わる」ことはほんとうに紙一重のような気がします。

      また「区別」することで、本来平等(同じ)であるはずの権利(人権)が、却って軽んじられるという危険もありそうです。

      絶対に「同じに」扱わなければならない部分と、違いを違いのまま共存するということができるほど、人間は賢明ではないのでしょう。

      >ぼくにとって「変わること」は、「存在すること」とほぼ同じ意味です。
      そうですか。わたしは何によらず、変化が苦手です。

      >『「スマホ」に対して、そこまで攻撃的な言い方をしなくても居られるのでは?』と思ったわけですね。
      つまり、Takeoさんが「スマホ」を嫌悪していても、それを「攻撃的な表現」で表す必要はないように思ったということです。

      う~ん。ごく当たり前の感覚を持った人には到底理解できないと思いますが、たとえば、どんなに好みの美人でも、その女性の手にスマホが握られた瞬間わたしはその女性が嫌いになるでしょう。

      「スマートフォン」というもの自体がわたしの「敵」である以上、攻撃的になるのもしょうがないと思っています。

      お忙しいところ、わざわざコメントをありがとうございました。

      風邪などひきませんように^^




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  2. Takeoさん、ふたつさん、こんにちは。

    >青梗菜さん(もう見てないのかな?)
    ふふふw。

    認めます、ってのは、
    もちろん自認のことで、
    僕が言い負かしたのではありません、念のため。
    僕は相手を言い負かして、はい、論破、なんてのは大嫌い。

    自認が、そういう議論、というか、
    対話というか、意見の交換というか、
    語り合う中でしか見つからなかったとしたら、
    議論は、共通の目的を果たしたわけです。
    僕も、何かを見つけたと思うし、
    変更を加えられたと思うし。

    差別と好き嫌い。
    僕には手に余る問いですが、
    差別と好き嫌いを往復しながら、
    注意を払い続ける人の問いだと思います。

    「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」
    って、ヴォルテールは言ったとか、言わないとか。
    でも、差別的な意見に反対するときにも、それを貫くのはつらいねぇ。

    なんにしても、生命まではかけられませんが、
    僕にもできそうなことは、椎名林檎の『幸福論』の歌詞くらいかな。

    「そしてあたしは君の強さも隠しがちな弱さも汲んで、
    あたしは君のメロディーやその哲学や言葉、全てを守る為なら少し位する苦労もいとわないのです」
    って、19歳の椎名林檎は歌いました。
    ヴォルテールよりも、カジュアルに、エモーショナルに。

    僕は、「あなたがそれを主張する権利を守る」って文脈で、
    何かを引用してくるときには、迷うことなく、
    ヴォルテールよりも椎名林檎を引いてくると思う。

    でも、世の中的には、
    ヴォルテールが言ったかどうかも怪しいフレーズは「知識・教養」で、
    椎名林檎が確かに歌っている歌詞は「知識・教養」ではないから、
    引用しても説得力に欠けるけれど。
    って、これは差別っぽいなw。

    使い古された他人の威をもって、
    自分を誇りながら、自論を補強する習性は、
    僕はもちろん嫌いなんだけど、
    差別ってこともないか~♪

    なんにしても、差別と好き嫌いを往復しながら、
    注意を払い続ける人の問いだと思います。

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    1. こんばんは。

      青梗菜さんも言ってたけど、人から言われても意見は変えられないけど、自分で気づけばそのように伝える。それを相手がどう受け止めるかはわたしの問題ではなく、お互いの議論(論争(苦笑)を通じて、わたしの中に潜んでいたものが現れたということです。

      >「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」
      って、ヴォルテールは言ったとか、言わないとか。
      でも、差別的な意見に反対するときにも、それを貫くのはつらいねぇ。

      それはそうなんです。(笑)

      >「そしてあたしは君の強さも隠しがちな弱さも汲んで、
      あたしは君のメロディーやその哲学や言葉、全てを守る為なら少し位する苦労もいとわないのです」

      仮にわたしの友達がスマホを持っていて、ふだんはそれを、「皆と同じように」「どこででも」使っていたとしても、わたしといる時間だけは、スマホのスの字も出さない。無論電源を切っておく。これがわたしにとっては

      >少し位する苦労もいとわないのです

      になるんだけど、そういうことを望むこと自体が無理な世の中なのかな。

      わたしは「スマホ嫌悪」を主張する権利はどうなのかな(苦笑)

      わたしは差別する者と言われても構わない。
      少なくともこのことに関しては味方がいるとも思えない。

      大体世の中にスマホ嫌いの友達や恋人を持ってる人がいるとも思えないから。
      そもそもスマホを持っていない時点で連絡の取りようもないしね。(笑)

      コメントからかなりズレた返信になってしまいました。



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  3. Takeoさん、こんばんわ。
    青梗菜さん、見ていてくれてうれしかったです。

    Q&Aのサイトを見てみました。
    大きく分けて、集団と個人の違いを「差別」と「好み」の違いとしている人と、「思考」と「行動」で分けている人がいたと思います。

    でも、ぼくは、「上下関係の有無」が一番の違いだと思いますよ。

    いくら大きな集団であっても、力関係が対等であれば、それを「差別」とは言わないように思います。
    ただ、現実的には「集団同士」や「集団VS個人」の場合、ほぼ確実に「上下関係」があるということは言えると思います。

    それから、「行動」を伴わない場合でも、十分に「差別的な思考」というのは存在すると思いますね。

    実際には、本当の意味での「力関係」というよりは、意識の上での『上から見下す』という方向性が、すなわち「差別意識」なんだと思いますね。
    ただ、これも、「力関係」で上に立っていることを笠に着て『上から見下す』という例が、非常に多いということなんだと思います。

    Takeoさんも青梗菜さんも、どっちかって言うと正反対でしょ。
    だから、実際には「差別」とは関係ない人だと思いますよ。

    もちろん、「差別意識」は万人の中にあると思いますから、ぼくみたいな「生理的に差別が嫌いな人間」の中にも小さな「差別意識」はあると思いますが、それをほじくりだしてきて「差別意識」だということには意味がないですよね。
    だって、ほかに「スゴイ人」はいくらでもいるわけですから。

    この件については、お二人の「言葉の使い方」に原因があるように思いますね。
    Takeoさんは「絶対に曲げたくないもの」の話になると、どうしても口調が強くなってしまう。(まぁ、仕方ないことだと思います)
    一方、青梗菜さんは、時々、相手の話を『スルっと』交わしてしまうときがあると思うんですが、そういう時に「突き放した言い方」になっていることがあると思います。(まぁ、仕方ないことだと思います)

    お二人とも、私のように非常にお丁寧なおしゃべり方をお心がけていかれますと、今後このようなことは、おなくなりになられるんじゃないのでしょうかと。
    さように存じ上げております次第でございます。

    でも、もっと根本的に言うと、Takeoさんの「スマホ関連の問題」は、そういうこととは直接的な関係は薄いと思います。

    やはり、Takeoさんの意識の状態が、確かに「病んでいる」んだと思います。
    ただ、これは、ご本人もおっしゃっていたと思いますが、「社会の病理」なのか「個人の病理」なのかが、はっきりしないところがあるので、そこのところで、具体像が見えてこないんだと思いますね。
    つまり、病んでいるのは「社会」なのか、それとも「Takeoさん」なのかが、はっきりしないんだと思います。

    要するに、現時点で両方病んでしまっているので、そこが見えにくいんでしょうね。
    だから、当然、先天性の病理なのか、後天性の病理なのかもはっきりしません。

    ぼくに一つだけ言いえるのは、『ぼくは、Takeoさんの苦悩は本物だと思います』ということですね。

    それでは、また。

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    1. 再び。

      「病んでいる」=「良くない状態」とはいえないと思います。
      人間の生体が、感性が耐えられる環境は、個人差もあるでしょうが、現代は多くの人が多かれ少なかれ病んでいると思います。

      「病んでいること」を誇りはしませんが、少なくともわたし個人に関して言えば、病むべくして病んでいるのだと思っています。

      心の病に関しては、病んでいるわたしはある意味「必然」だと思っています。

      >『ぼくは、Takeoさんの苦悩は本物だと思います』ということですね。

      ありがとうございます・・・っていうのも変な感じですが、そのようにわたしの文章を読んでくれる人がいるというのはうれしく思います。

      ふたつさんの独特の思考に、表現に、なかなかついていけませんが、その辺は大目に見てください^^



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