2018年12月22日

人と人との間…


「人と人とがわかり合うということ」

「人と人・・・」これは「自己」と「他者」という「別個の存在」が前提とされる。
それはつまり「わたし」は「あなた」ではないということ。
そのような前提があって初めて、ではその異なるもの同士がわかりあう、通じ合うというのはどのような状態か?という問いかけが発せられる。

いまのわたしの心理状態で「わたしではないあなた」と「あなたではないわたし」が相通じ合う状態とは、おそらく、「言語」(的コミュニケーション)の次元ではないような気がする。

逆に言えば、「互いが言葉を必要としない状態」こそ、通じ合っている状態なのではないかと。

それが矢川澄子のいう〔HUG〕なのか、ふたりでだまって向かい合っている(或いは隣り合っている)ことなのか、それはわからない。けれども今のわたしには、言葉では決して充たされることのない欠乏感、飢餓感がある。

「完全なよろこびは、よろこびの感じそのものすらも必要としない。なぜなら、対象によってすっかり満たされたたましいの中には、<わたし>とことさらにいう余地はどこにもないからである。」
ー シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』田辺保訳 
(Simone Weil - La Pesanteur et la Gr ce 1947) 

いまわたしに必要なのは、人と人との「距離(隔たり)」を、限りなく〔0〕に近づける「何か」なのだ。しかしわたしが問題としているのは、あくまでも、「人と人」との関係である。

わたしは「神」を語ってはいない。何故なら「信仰」とは「わたし」が「あなた」になること。「わたし」が「あなた」と同化することに他ならないのだから。

とは言え、

「私たちがどれほど遠く信仰から離れ去っていようとも、話相手として神しか想定できぬ瞬間というのはあるものだ。そのとき、神以外の誰かに向かって話しかけるのは、不可能とも狂気の沙汰とも思われる。
孤独は、その極限にまで達すると、ある種の会話形式を、それ自体極限的な対話の形を求めるものである。」

というシオランの言葉もまた事実なのだ・・・













2 件のコメント:

  1. 空虚と向き合う2018年12月22日 21:01

    会話の限界を超えるのは本当に難しいですよね

    ちょっと返事を書くのが遅れました。ごめんなさい。
    長文なので疲れたら休んで、読みたくなったときにゆっくり読んでください。




    >>このブログは、新着のコメントを教えてくれる機能がないので、自分で見つけるしかないのです。ですから、危うく見落とすところでした。

    ごめんなさい。これからは一番新しい記事にコメントを書くように心がけます。
    返事頂けて嬉しいです。丁寧に返事をするために、返事を書くのがおそくなりました。ごめんなさい

    ↓下の記事のコメントの続きです
    https://pobohpeculi.blogspot.com/2018/12/blog-post_14.html

    >>もうひとつの解釈としての「甘えるな」は、その濃淡はあっても、あくまで見知った者同士の関係だと思います。「キミ」は「ぼく / わたし」に甘えてくるけど、それはこちらには負担なんだ・・・という、既に何らかの「関係を持つ者同士の」その関係性の「在り方」への調整だと。

    なるほど確かに私の解釈は交流のある人との調整ですね。


    >>わたしが上で話題にしているのは、主にネット上で、自分がその「誰か」の「甘え」によって、具体的に困っているというわけでもないのに、第三者の言動に対して、「こういうのを甘えっていうんだよな」「甘えだね」と、外部から見知らぬ他者を裁くことへの違和感です。


    他者が他者を裁く違和感ですか。
    匿名と匿名で話す時に他人を物扱いしてしまう人が多いのかもしれません。
    電車等で距離を詰める時に、知人では無い他人なら体を押すことに抵抗がないと聞いた事があります。
    そっけない裁き、判断は会話にも起こるのかもしれません。



    >>また、以前も書いたことがありますが、電車への飛び込み自殺で、自分が現実に「迷惑」を蒙ったとしても、そのことに対して、「チッ!」と舌打ちをするような人とはわたしは決して相容れません。



    長文になりますがよければお読みください。

    私が夜勤終わりに始発で帰った日に、人身事故で二時間ぐらい止まった事がありました。
    その時サラリーマンが「こんな時にこんなことを起こしやがって!クソが!!」と叫んでいました。恐らく大事な会議か社外でのプレゼンだったのでしょう。
    他のサラリーマンやOLが会社に電話し遅れる事を伝え終え、舌打ちをするのを聞いて悲しくなりました。
    社会で迷惑をかけるという行為は命より重いということが実感できました。それはつまるところ社会からはみ出した者、社会に役に立たない、或いは邪魔になる者への強烈な排除と言っていい。
    「こんな時にこんなことを起こしやがって!クソが!!」彼の中には会社に迷惑をかけるな、社会に迷惑をかけるな、俺に迷惑をかけるな、他人に迷惑をかけるな、いろんな思いがあったと思います。
    それでも誰かが亡くなった(二時間の回収作業という現場がどれほどか想像に難くない)
    そういう時に舌打ちや罵声を浴びせるのは私はやめようと思いました。
    私とて仕事終わりだからと迷惑が全くないわけでもなく、汚い話になりますが便意があって漏らしそうだったし(漏らさなかったのは奇跡といっていい)、睡眠時間が少なくなってしまった。
    それでもいろんな理由で苦しんで死に踏み切った人もいるのだから、その可能性を見ずに罵声を浴びせる人達は、私も相容れないなと思います。ごめんなさい結論まで長くなりました。




    >>いづれにしても、人を批評したり、批判するほどの余裕はわたしにはないということです。また批判はあくまでも自分よりも或いは社会的に強い者、「力」を持つ者に対してのみ。


    確かに批評や批判は余裕が無いときはキツイですね。他人を批判したあとにくる疲れが特にきついです。takeoさんがゆったりくつろげる事を私は願います。


    力のある人が力の使い方を間違えてるのなら指摘することは悪いことではないと思います。




    >>わたしは自他ともに認める狂人です。それに共鳴するということは、空虚と向き合うさんも病んでおられるのでしょうか?
    まぁシオランに共感する人すべてがこころを病んでいるわけではありませんが、少なくとも、所謂「生き辛さ」を感じていない人が彼の本を読み、また共感することはないでしょう。それはわたしのブログも同じです。
    傷を負っていない人が読んでも全く意味不明の事ばかり書いています。



    takeoさんが狂人かどうかは私の判断ではどうにもつきませんが、仮に狂人だとしても
    言葉を尽くしてくれる狂人と、そっけない常人なら前者を選びます。

    私は健康とは言えない状態です。傷を負っている人です。完治は難しいです。
    でもだからこそtakeoさんの文章が響くのでしょう。


    >>わたしが繋がることができるのは上っ面の言葉ではなく、血の滴っている傷によってのみだと考えています。


    私もそう思います。痛みの無い状態では相手の痛みを理解するのは難しいと思います。



    >>・・・いや、どうも初めて訪れて下さった方に、相変わらず理屈っぽいことを語ってしまいました。



    私も理屈っぽいので話しやすいです。



    >>今日は病院に行って、疲れて、財布を落として、ちょっと気分がささくれ立っています。
    ご気分を害されましたらお詫びいたします。



    むしろ相手のタイミングも考えずにコメントした私のほうが謝りたいです。申し訳ない。
    お財布見つかってほしいです。




    >>コメントをありがとうございました。
    また気が向いたらお越しください。
    寒い日が続きますがどうかお身体ご自愛ください・・・



    こちらこそありがとうございます。元気があるときまたお邪魔します。takeoさんもお身体ご自愛ください。




    >>もしあなたが、わたしの知っているmさんなら、先日他のブログでお伝えしたように、
    お話しはできません。




    私はmさんではないです。その方がどなたかご存知ありません。
    他のブログでtakeoさんのコメントを見て
    こちらのブログにお邪魔させてもらいましたm(_ _)m
    長文を読んでいただきありがとうございました。

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    1. こんばんは。

      えっと、お名前がちょっと長いので、便宜上空虚さんとお呼びして構いませんか?

      先ず先のコメントの追伸部分の、「mさんでは?」云々についての誤解をお詫びします。またひょっとしてこれを見ているかもしれないmさん本人にも、お詫びします。わたしはmさんに「閲覧はご自由になさって下さい」と言いました。「けれども、お話はできません」と。

      空虚さんの文体がmさんに似ていたので、勘ぐってしまいました。おふたりに、ともどもお詫びします。



      わたしも人のことを非難はできないかもしれません。例えば、「引きこもり」の人が執拗に自分を「社会の論理」で責めているのを見るとイライラします。
      つまり社会で働くことができない自分は人から蔑まれ軽んじられるのは当然という理屈です。そのことは最近ちょっと触れたので、ここでは省きますが、つまるところ、人のいたみは、仮に自分が別の種類のいたみを持っていたとしても、決して理解できないものだということでしょう。

      人身事故についても、そういう場面でわたしがいつも平静でいられるとは思えません。それは現代の、それも大都市で生きる者にとっては、避けられない「怒り」であり「舌打ち」なのでしょう。けれども、その条件反射的な怒りを「他人への迷惑」という言葉で正当化はしたくないと思います。
      怒ってしまう自分、人、チっ!と舌打ちをしてしまう自分、人。それは仕方のないことであっても、やはりそういう自分を批判的に見る自分があれば、と思います。

      わたしも多くはありませんが、心の病を持った人のブログをいくつかフォローしていますが、このようなブログは他に見たことがありません。ですから、わたしのことを知っている人以外の、新たな人からのコメントというものが俄かには信じられなくて(苦笑)

      詮索はしませんが、いったいどこから・・・誰のブログに残したコメントを見て訪れて下さったのか、見当がつきません。

      コメントは確かに見落としてしまう可能性はありますが、どこにでもご自由に書き込んでください、また、最新の投稿に、過去の記事についてのコメントを残してくださっても一向に構いません。

      電話ではないので、こちらの都合など気にせずに、書きたいときに書いてください。
      こちらも即答は出来ないかもしれませんがご理解ください。

      空虚と向き合うさんもお身体お大事に、どうか平穏な年末をお迎えください。





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