2018年12月27日

「口ごたえ」の必要


一昨日だったか、一緒に行くはずだった辺見庸の講演のことについて母と話していた。

わたし:「辺見庸の講演もいいけど、そういう特別な人じゃなく、ごく普通の、そこら辺にいる学生や会社員、スーパーやコンビニなんかでアルバイトをしてる人たちの「講演」「お話し」を聴いてみたいな。どんな人だってなにも考えずに生きてるってことないもんね」

母:「昨日の新聞だったかな、暉峻淑子(てるおかいつこ)さんが、「対話の必要」について書いてたよ。『みんなが自由に話せる「対話」の場が、駅の数と同じくらい必要だ』って」

講演でも、対話の場でも、政治家や物書きではなく、一般の生活者たちが、日頃何を思い何を考えて生きているのかを知りたい。

例えば歩きながらスマーホを眺めている人に対して、脚を引っかける代わりに、是非講演をお願いしたい。地域の文化センターの会議室のような比較的大きな部屋で。
テーマは「わたしとスマーホ」或いは「わたしにしって便利さとは?」更に抽象度を上げて、「便利であるとはいかなることか?」
現に便利さの恩恵に浴しているどころか、便利じゃなければ生きられないくらいになっているのだから「俺 / 私には関係ない」テーマではないはずだ。

電車の向かいの席で揃ってスマーホに見入っている人たちを、一様に、「仇敵」と見做す前に、先ず彼らにとって「スマーホ」とは如何なる存在であるのか?それがあたかも病気の人にとっての酸素ボンベやペースメーカーのように、なぜ、いつでもどこでも手放すことができないのか?その辺りの事情を是非聞きたい。

それが納得できるものであれば、わたしは最早彼らを「敵」であるとは思わなくなるだろう。「知る(理解する)ということは、許すということだ」と、パスカルの言うように。

物書きや所謂文化人と呼ばれる人たちは、大勢の人の前で話すことに慣れているだろう。
けれども、そのような経験がなくても、誰でも自分の生き方、存在の在り方についての「考え方」 - ポリシー、(ライフ)スタイル、スタンスというものを持っているはずだ。
立て板に水でなくても、ボソボソでも、ぽつりぽつりでもいいから話を聴きたい。
辺見庸の講演会は2時間半で1500円。街の人たちなら、40分で500円くらいか。
話を聴くことができるなら、そのくらいの対価は払うつもりだ。

新聞によると、暉峻さんは、「若者や各地の住民グループらが集う場に足を運び「対話」の大切さを訴え続けている」という。そして「約8年前から、住まいのある東京都練馬区で会社員や主婦らと勉強会を続け、今年の秋、記録集を出版した」とある。
(この「記録集」についての詳細は書かれていないが、是非読んでみたい)



「作家」や「ブンカジン」だけが「語る人」で、「一般人」は常に聴く人であるという考え方はおかしい。誰もが語る人であり得る。繰り返すが「無意識に生きている人」など存在しない。全て人の行動の裏地には「何故」が貼り付いている。
何故安倍政権を支持するのか?何故天皇制を支持するのか?何故電子書籍を読むのか?
「何故」を言い換えれば「理由」である。Why? と尋ねれば、Because...と答えが返ってくるのが人間であるはずだ。



1967年に出版された、なだいなだの『片目の哲学』(副題「続パパのおくりもの」)というエッセイは、それぞれまだ十に満たない三人の娘たちに、なださん流「人生哲学」を語って好評を得た『パパのおくりもの』(1965年)の続編だが、その中に、「子供の口ごたえ」という一文がある。そこから一部を抜粋する

口ごたえというものは、子供が論理的な精神を学ぶために必要なもので、神様が人間を作ったのなら、まったくうまく作ったものだと思う。口ごたえというものをおしつぶしては、神の意に反する。
お前たちの生まれる前、日本の軍隊では口ごたえを許さなかった。絶対服従であった。それが強い軍隊を作った。それは確かなことかもしれない。これがお前たちのママの国フランスの軍隊だと、隊長が、
「前進せよ」
と命令すると、兵隊は、
「なぜ前進するのか」
と、なぜという言葉を発する。納得しないと進まない。だから軍隊が強くないのかもしれぬ。しかし、軍隊が強いだけでは国は亡ぶ。日本も国民がなぜと問いかえす精神を持ち続けていたら、そう、やすやすと、無謀な戦争などおっぱじめなかったかも知れないのだ。
口ごたえをされると、とてもわずらわしい。だが、自分にはわずらわしくとも、社会全体としてはそれが必要なものであることをおぼえておいて、寛容であるべきだ。

口ごたえとは、何故「わたしは」こういうことをした(する)のか?「わたしは」何故こう考えるのか?ということを伝えることだ。或いは自分はそう思う(思わない)という自己の立場の表明だ。

この口ごたえの姿勢こそ、暉峻さんの言葉を借りれば、「民主主義の足腰を強くする」「対話」だろう。
「わたし」不在=「以下同文」の民主主義などあろうはずがないのだから。

「スマーホ憎し」でキミたちを「スマーホ馬鹿」と罵るこのわたしに、誰か、緻密に、論理的に「口ごたえ」してくれないか・・・








2 件のコメント:

  1. Nicoさん、こんにちは。
    私に緻密で論理的な「口ごたえ」は無理なので、だから浅薄に考えてみました。

    Nicoさんの極度に嫌うスマホに付いては以前より不思議に思っていましたが、ある時ふと気付いたのが指先を動かすだけで遊ぶニンテンドーのゲーム機に夢中になっている人の姿にNicoさんのスマホへの気持ちに通じるよな思いを持ったことです。

    ほんの少し軽蔑してましたね。

    そのゲーム機以上に使われているスマホは便利、と云うよりも退屈しのぎでの利用が意外と多いのではないでしょうか。

    公園での待合の時間。電車に乗っている時の手持無沙汰。
    こんな時のスマホは“待つ”と云う大抵の人が退屈する時間を解消してくれます。
    この待ち時間の退屈さを埋めるために、人々はスマホを手にしてしまうように思います。

    本当にスマホを使う必要があって使っている人は意外と少ないかもしれません。

    ただ、思うのはテレビは受け身の要素が濃いですが、スマホの場合は能動的な使い方もできるから、これが大きな魅力になっているのだと思います。

    ブログも見ているだけでは物足りなく、だから多くの人が自身のブログを持っていると云う理由と同じです。

    人は見かけが8割、なんていうようですが、スマホを使っている人の姿。
    この姿の他者に与える印象は決して良いものではないですね。
    このスマホが本だったらと思うと、おなじ姿でもまた違った印象を持つから、これもまた不思議で、その違いも考えてみたくなります。

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  2. こんばんは、yy8さん。

    でもつい10年ほど前にはスマホなんてなかったですよね。それ以前には携帯電話すらなかった。ということは、多くの=ほとんどのひとたちは、これまでいつも電車の中で、または何かを待っている時間に、どうしようもないほど退屈に苦しめられていたということでしょうか。
    だから、その退屈を埋める道具が出るや、ドッと全員が飛びつく。

    そんなにみんなは電車を待つ時間や移動時間=「空白の時間」そして「待つこと」にうんざりしていたのでしょうか?

    では「もの思い」「空想」「デイ・ドリーミング」といったものは何処へ行ってしまったのでしょう?

    人は自分の頭で時間を埋めることをせず、与えられた情報を眺めることで時間を潰しています。

    なるほど、スマーホでブログを投稿している人もいるでしょう。でも何故わざわざ屋外で?電車内で?

    彼らにとって「恥ずかしさ」とは、横一列、皆が揃って同じことをしている、そのひとりであることよりも、同じことをしていない自分の姿に向けられるのでしょうか?

    とにかく謎が多いです。

    ほんとうにそういう人達の意見を聞かせてもらいたい。
    何もそのことに限らず、普通の人達が日頃何を考えているのか?ブログではなく、同じ空間を共有して意見の交換がしたいと切に願います。

    コメントをありがとうございました^^




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