2018年12月14日

明るい未来(その他断想)


考えが漠然としてまとまらない。このところ、人のブログを読んでこころを乱されることが多い。
これは偶然だろうか?
それとも、"Everybody Is Normal Until You know them Well..."
「深く知り合うまでは誰でもマトモだ」の言葉に従えば、今ちょうど、彼らの真の姿が見え始め、わたしの感性にとって、どうしても氷炭相容れざる「異質の他者」の姿が現れてきたのだろうか。

「余りに早くわたしを理解するな」とは、アンドレ・ジッドの言葉だが、片言隻句によって、その人の本質が透けて見える場合が少なくない。直観的に、「合わないな」と感じた人は、後に見方が変わるということはほとんどない。



弟はよく母に、わたしももっとTVを視れば今の世の中がわかるのにと言っているらしい。確かにわたしは「今の世の中」のことをほとんど知らない。テレビはもともと持っていないし、これから購入する予定もない。新聞も既に半年ほど前から手に取らなくなっているし、インターネットでニュースを見る習慣もない。意識的に「外界の情報」を遮断している。

全くの無智な者が、たまさか外に出て感じることは、世の中は決して暗くはないということだ。
再来年の東京オリンピック(嘗て加藤周一が「4年に一度の世界的見世物」と称し、松山巌は「健康の祭典」と・・・)そして2025年(?)には大阪での万博が決まったらしい。「一億総活躍社会」「人生100年時代」「女性が輝く社会」・・・世の中右を向いても左を見ても明るい話題ばかりで、日本の行く末には一抹の影すら差してはいないようだ。

そんななかで、わたしをふくめたごくごく僅かな者が、病み、躓き、転倒して、明るい未来を約束された社会から零れ落ちた。しかしそれは象が蚊に刺されたほどの微小な、在るか無きかの、取るに足らない出来事でしかない。

現実に外の世界を歩いていても「暗い世相」などという言葉は全く似合わないほど、人々の顔に翳りはない。スマートフォンのガイドに従っていれば、決して道を踏み外すことはないという確信があるようだ。無論Google Mapが誤るはずがない。だから人々は道を過たないように齧りつくようにスマートなガイドに見入り、聴き入っているのだろう。



「引きこもり」と呼ばれる人の多くは、「このような状態」になってしまったことを自ら恥じ、社会に向かって詫びている。それはとりもなおさず、障害への、病への、ひいては「人間という生体」への蔑視に他ならない。「自分が間違っていたから病んでしまった。外に出て働くことができなくなってしまった」と。しかしそれは裏を返せば、人間は病まず、過たず、転ばず、途を失うことのない万能者であるというある種の信仰を前提とする。
だからこそ、万能者で無くなり、愚かにも病んでしまった自分をそこまで貶めることが出来るのだ。
からだが、こころが病んでいても、せめて意識は強者と共に在りたい。
弱い者、それが自分自身であっても、それを蔑みたいのだ。強者と同じ位置で。



「人のことはともかく・・・」とは言えまい。他者あっての自己なのだから。

最近はとみに社会との、つまり他者との不協和音が際立って来ているように感じられる。
最早誰とも「わたし」を共有できないという、絶対的な孤絶感・・・

そう言えば、人のブログに心乱され・・・と書いたが、偶然にも、その3者のブログに、それぞれ違った文脈ではあるが、同じ言葉が記されていた。それは「甘え」。
自分自身をも含め、誰かに向けて「甘え」という言葉を用いる以上、その者は「甘え」の対極に位置していることになる。甘えの対義語といえば「厳しさ」だろうか。「私は自分に厳しい(甘くない)のだ」と、だから他者にも厳しくできる(する)のだという意識があるのだろうか?
自分が「甘え」と対極に立つ存在であると任ずる者とはいったい如何なるものなのだろう?
また「甘え」が「弱さ」の同義語乃至類語であるなら、それを指弾することは「それにひきかえ自分は(強い)」と言外に公言していることに他ならないのではないか。
われは強者也と思えるものの心性とは如何なるものか・・・



最近久しぶりに某Q&Aサイトで言葉を交わした人の過去のブログに、いくつかコメントを残していたのを見つけた。2007年のことである。
当時は「親友」と呼べる人がいて、自由に外を闊歩していたが、わたしの孤立は当時も今も、そしてそれ以前も変わってはいなかった。

その人(仮にHさん)のブログから11年前のわたしの発言をいくつか書き写す。


●Hさんの全ての回答の中で一番印象に残っている言葉は、わたしの「無能」という言葉を「卑下」と仰ったことです。そのような卑下は不要だし、不毛であると。

何故わたしの「無能」を否定するのか、
最後まで謎でした・・・
無能なものと言葉を交わすことは不快ですか?


●Hさん。お返事ありがとうございました。
・・・掲示板からの退会に続いて、
7月から付けていた無料のレンタルブログに「あそこで」お馴染み(?)のMINTWALLさんが訪れてくれて、何回か書き込んでくれたのですが、彼女とも意見の相違で決裂。

ブログ閉鎖。

明星大学心理相談室も2回目でカウンセラーに「続けていく自信がない」と言われてお仕舞い(苦笑)

・・・所詮融和することのない人間関係を求めてウロチョロすることに本当に疲れてきました。

・・・19歳のときに堰を切ったように溢れ出た悲しみ・・・
Hさんは「論理的な飛躍」と仰いますが、これはもっと「神秘的な体験」といえるようなものかもしれません。

掲示板を出たり入ったりしても、
カウンセラーを探して東奔西走しても、

私の疑問は打ち寄せる波とともに届けられ、尽きることがありません・・・

いずれにしても私は19歳の不思議な体験は、遥か25年後の今振り返って、やはり嘘ではなかったと思えるのです。

あれが私の「原点」でした。


● 夢で見たイメージ・・・

自分の手にしっかり握られた鎖。
その先を辿っていくと、
首輪に繋がれた自分の首・・・

(Hさんの返信)
>私の疑問は打ち寄せる波とともに届けられ、尽きることがありません。
:そうですか。むずかしいですね。
浜辺に寄せた波の尻尾を掴みきれないうちに沖に戻ってしまい、また別の波がやってくるというようなことになるのでしょうか。

思考の船を大洋に乗り出し、果てしなく連鎖する波を営々と追い求める手法もあるようですが、どちらにしても簡単に答えは出ないかもしれませんね。
船とは何らかの自信なのでしょうが、気づかないだけで誰しもが自分の船は持っているような気がします。


● >思考の船を大洋に乗り出し、果てしなく連鎖する波を営々と追い求める手法もあるようですが、どちらにしても簡単に答えは出ないかもしれませんね。

>船とは何らかの自信なのでしょうが、気づかないだけで誰しもが自分の船は持っているような気がします。

私の船は「謎」に飲み込まれてしまうでしょう。

最早、私自身が謎と同化してしまうでしょう・・・

この絵のように・・・


●・・・昔からあるおはなし。

病院の待合室にて数人のお年寄りが

「おや?今日はLBさんの姿、見えないね」
「ああ、なんだか最近具合がよくないらしいよ・・・」

相談をする、手を差し伸べる。
口を開き声を発する・・・
それも元気のいることなんだと思います。

心が足元まで沈んでしまった時、
人は自己の躯をも重力に任せるのだと思います。

或いは線路に、或いは地面に、或いは湖底に・・・

(※LBとは当時わたしが彼(ら)とやり取りをしていたQ&Aサイトの「哲学」カテゴリーで用いていたハンドルネーム、Loser Blue から来ている。ルーザー・ブルー(=敗残者の憂鬱)


● いまさらに 死なば死なめと 思へども 心に添はぬ 命なりけり


・・・この世になにか 思ひ残さむ














3 件のコメント:

  1. 空虚と向き合う2018年12月20日 14:24

    はじめまして
    名前の意味がわかるのなら共感者だと思います




    >>自分自身をも含め、誰かに向けて「甘え」という言葉を用いる以上、その者は「甘え」の対極に位置していることになる。甘えの対義語といえば「厳しさ」だろうか。「私は自分に厳しい(甘くない)のだ」と、だから他者にも厳しくできる(する)のだという意識があるのだろうか?

    この解釈も当たってると思います。
    でももう一つの見方をするなら、強くないと自覚している人間にとって誰かに甘えられるのは負担になると思います。
    言い方を変えるなら「人の苦しみを背負える程俺は強くはない、だから俺に甘えないでくれ」というのが本音かもしれませんよ。
    「甘えるな」これは相手の命乞いかもしれません。
    よければ解釈の一つとして読んでください。



    >>・・・所詮融和することのない人間関係を求めてウロチョロすることに本当に疲れてきました。

    この名文に出会えた事を感謝したい。というか普段見る専門の私が書き込んだのはあなたの書いてる文章の数々に感動している人がいると伝えたいからです。

    この文に感動するという事は私の精神状態は似てると思います。
    決して自分と同じ人間はいないけれど似た人間はいると思います。
    100%同じ人間は無理でも99%ならいると思います。
    死を選ぶよりはシオランのように文章を生みながら
    自分と似た人間と共に生きてみませんか?


    いきなり色々書いてごめんなさい
    今年ももうちょっとです
    とりあえずしのぎましょう

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    1. こんばんは。

      このブログは、新着のコメントを教えてくれる機能がないので、自分で見つけるしかないのです。ですから、危うく見落とすところでした。

      もうひとつの解釈としての「甘えるな」は、その濃淡はあっても、あくまで見知った者同士の関係だと思います。「キミ」は「ぼく / わたし」に甘えてくるけど、それはこちらには負担なんだ・・・という、既に何らかの「関係を持つ者同士の」その関係性の「在り方」への調整だと。

      わたしが上で話題にしているのは、主にネット上で、自分がその「誰か」の「甘え」によって、具体的に困っているというわけでもないのに、第三者の言動に対して、「こういうのを甘えっていうんだよな」「甘えだね」と、外部から見知らぬ他者を裁くことへの違和感です。

      また、以前も書いたことがありますが、電車への飛び込み自殺で、自分が現実に「迷惑」を蒙ったとしても、そのことに対して、「チッ!」と舌打ちをするような人とはわたしは決して相容れません。

      いづれにしても、人を批評したり、批判するほどの余裕はわたしにはないということです。また批判はあくまでも自分よりも或いは社会的に強い者、「力」を持つ者に対してのみ。

      わたしは自他ともに認める狂人です。それに共鳴するということは、空虚と向き合うさんも病んでおられるのでしょうか?
      まぁシオランに共感する人すべてがこころを病んでいるわけではありませんが、少なくとも、所謂「生き辛さ」を感じていない人が彼の本を読み、また共感することはないでしょう。それはわたしのブログも同じです。
      傷を負っていない人が読んでも全く意味不明の事ばかり書いています。

      わたしが繋がることができるのは上っ面の言葉ではなく、血の滴っている傷によってのみだと考えています。

      ・・・いや、どうも初めて訪れて下さった方に、相変わらず理屈っぽいことを語ってしまいました。

      今日は病院に行って、疲れて、財布を落として、ちょっと気分がささくれ立っています。
      ご気分を害されましたらお詫びいたします。

      コメントをありがとうございました。

      また気が向いたらお越しください。

      寒い日が続きますがどうかお身体ご自愛ください・・・




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  2. 追伸

    空虚と向き合うさん。

    もしあなたが、わたしの知っているmさんなら、先日他のブログでお伝えしたように、
    お話しはできません。

    ご理解ください。



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