先日紹介した「牛乳拭いた雑巾臭いブログ」の中に、またちょっと興味を唆られる記事を発見したので、再びそれについての感想を。
以下優介さんのブログより全文引用
◇
SF脳持ってません
文明化や機械化が生理的に受け付けない、という人はけっこういるけど
僕はどっちかというと、機械のナチュラル化の方が受け付けない
人工は洗練されれば自然に近づく
異質だったはずのテクノロジーは徐々に世界に馴染み、自然との境目がなくなっていく
でも人工の持つ不自然な美しさが僕は好きなんだ
僕は”電脳”にロマンを抱いていた世代です
マトリックスとか攻殻機動隊みたいな(どっちもちゃんと見てない)サイバーゴスぅな世界観に憧れました
その気持ちがまだ残っているので、今でも夢のアイテムを手にしちゃったという気持ちで携帯をパカパカしています
小学生の頃、街でiMacのでっかいポスターを見た時に感じた近未来へのトキメキ
21世紀は超未来!SFが現実に!みたいなあの期待感は一体なんだったの?
電話線に繋がなくてもネットが出来るようになったら、もっとSci-fiに生きられるのかと思ってなかった?
20年前より今の方が、当然ハイテクなはずなのに、ちっともあの頃思い描いたスタイリッシュ未来になっていない
目に埋め込まれた記録装置がキュイーン…みたいなそういうやつ(馬鹿なりの精一杯の表現)
背中にいっぱいコード繋いだりとか…
コードない今の方が進んでるんだけど、そういうことじゃないんだよ
技術の面で言えば、スマホの顔認証はかなりスタイリッシュ未来だと思います
こういうの、確かに昔アニメで観ました
でも、外人の可愛い姉ちゃんの健全で親しみやすいCM見てると、何か違うんだよな~~~~
こういう時は普通、スキャナーから緑色の光出すよね!?
スタイリッシュは人間にとって不便なんだよね
真四角の方がスタイリッシュサイバーだけど、角がとがって危ないので、結局丸っこくなっていく
蛍光グリーンは目に痛いし、ピタピタした全身スーツは着心地が悪い
夢見ていたのは、技術の進歩ではなく、みっともない生活感の排除だった
外人の姉ちゃんがカメラの前ではしゃいで見せるような、嘘くさいヒューマニズムが淘汰され、誰に対してもにこりともしない無機質が反映することを望んでいた
21世紀になって、僕が言い表せないようなすごいことが色々可能になっても、生活感の中に技術があるだけだった
どんなにwi-fiを飛ばしても、キッチンで牛乳パックを乾かすみすぼらしさから抜け出せない
スタイリッシュ未来を乗りこなせるのは、スタイリッシュな人間だけ
キアヌ・リーブスのためだけに世界はデザインされない
いくらキアヌが金持ってても、残り60億のキアヌじゃない方にビジネスが寄せられていくのは当りまえだ
インテリアに調和するけど何なのかよくわからない製品より、生活感とわかりやすさを兼ね備えた小林製薬を買っちゃうんだ
人類がキアヌにならない限り、世界はマトリックスにならないんだな
やっぱキアヌすげーわ
◇ ◇
こんばんは、優介さん。
また投稿を元に、勝手な意見を述べさせてください。
Y:文明化や機械化が生理的に受け付けない、という人はけっこういるけど
T:そうでしょうか?そういう人をどこで見ましたか?
またそういうつぶやきをどこかで聞いたことがありますか?
わたしは(一部の高齢者を除き)誰もが何の抵抗もなく、機械化・文明化を受け容れているように思えます。
Y:人工は洗練されれば自然に近づく
T:ん?洗練されると益々人工的になるんじゃないですか?
だって、「洗練する」ということ自体が「作為」です。
「廃墟」は「洗練されなくなった」から、より自然に近づいているんじゃないでしょうか?
Y:異質だったはずのテクノロジーは徐々に世界に馴染み、自然との境目がなくなっていく
T:わたしの目にはやっぱり異質だし、機械だし、無機的です。世界とは馴染んでいるけど、所詮人工的な無機物と自然は相容れないと思います。
Y:人工の持つ不自然な美しさが僕は好きなんだ
T:これは優介さんの美意識だし、「自然」と、アーティフィシャルな「不自然」とが厳然と区別されているので、わかりやすい。
Y:小学生の頃、街でiMacのでっかいポスターを見た時に感じた近未来へのトキメキ
21世紀は超未来!SFが現実に!みたいなあの期待感は一体なんだったの?電話線に繋がなくてもネットが出来るようになったら、もっとSci-fiに生きられるのかと思ってなかった?
T:これは世代の差というよりも、個人の美意識=何に美を感じるかの違いでしょうが、
わたしは「未来世界」に憧れを持ったことがありません。優介さんとは逆に、なんとなく、「機械っぽい雰囲気」に抵抗があったのです。
(Sci-fiってなんですか?)
Y:目に埋め込まれた記録装置がキュイーン…みたいなそういうやつ(馬鹿なりの精一杯の表現)
背中にいっぱいコード繋いだりとか…コードない今の方が進んでるんだけど、そういうことじゃないんだよ
T:わたしはSFXというのか、CGというのかよくわからないけど、スピルバーグ監督の『マイノリティー・リポート』という映画を観た時に、何とも言えない違和感・不快感を感じました。ひどく安っぽくて、チャチで。それだけじゃなく、全体を覆う未来のイメージというものが、ちょうど『ロスト・イン・トランスレーション』を見た時に感じた生理的な嫌悪感と非常に近かった。この二つの映画は、わたしがこれまで見てきた映画の中でも最も「グロテスク」な映画でした。
Y:技術の面で言えば、スマホの顔認証はかなりスタイリッシュ未来だと思います
こういうの、確かに昔アニメで観ましたでも、外人の可愛い姉ちゃんの健全で親しみやすいCM見てると、何か違うんだよな~~~~
こういう時は普通、スキャナーから緑色の光出すよね!?
T:これはわかります。機械はあくまでも生体にとって「異質」なモノ、冷たい無機物であって、人間と馴れ親しむモノではないはず。機械はペットでもなければ友達でもない。あくまで「マテリアル」=「モノ」「血の通っていない物質・道具」以外のなにものでもありません。
Y:夢見ていたのは、技術の進歩ではなく、みっともない生活感の排除だった
外人の姉ちゃんがカメラの前ではしゃいで見せるような、嘘くさいヒューマニズムが淘汰され、誰に対してもにこりともしない無機質が反映することを望んでいた
T:全く正反対のようだけど、わたしは優介さんの「求め方」のほうに自然さを感じます。
ただ、人間が生きるということ自体、避けようもなくみっともないことだと思っています。
そしてそのみっともなさの裡にこそ、尊厳や美が潜んでいるのだと。
「機械(道具)」と人間が相親しみ、融和して生活していた時代が、つい一昔前まであったのです。けれども、現代はそのようであるべきではない。あくまでも温もりを排した冷たい関係=相互にディタッチメントなスタンスが、デジタルと人間の生体の関係としては相応しい。それによって、人間から温もりが次第に失われてゆくことは避けられないとしても、それを選んだのは彼ら自身です・・・
Y:21世紀になって、僕が言い表せないようなすごいことが色々可能になっても、生活感の中に技術があるだけだった
どんなにwi-fiを飛ばしても、キッチンで牛乳パックを乾かすみすぼらしさから抜け出せない
T:「生活感の中に技術があるだけ」
「どんなにwi-fiを飛ばしても、キッチンで牛乳パックを乾かすみすぼらしさから抜け出せない」・・・
「どんなにwi-fiを飛ばしても、キッチンで牛乳パックを乾かすみすぼらしさから抜け出せない」・・・
この辺りが、わたしとの感じ方の違いのようです。
わたしは電車の中で、街中で、スマートフォンやタブレットに見入っている人たちを、そもそも「人間」であるとは思えないのです。(これは「人間以下」といったニュアンスではなく、「生物・動物」としての「人間」という意味です)
彼ら / 彼女ら一人一人がそれぞれまた「端末」であって、その背後に、優介さんの言う「みっともない生活」や「キッチンで牛乳パックを乾かしている時間」つまり「人間の時間」或いは「生体としての人間の姿に戻る時間」が広がっているとは、どうしても思えない。ましてや「牛乳をこぼして雑巾で拭いている姿」など、到底想像もできないのです・・・
彼ら / 彼女ら一人一人がそれぞれまた「端末」であって、その背後に、優介さんの言う「みっともない生活」や「キッチンで牛乳パックを乾かしている時間」つまり「人間の時間」或いは「生体としての人間の姿に戻る時間」が広がっているとは、どうしても思えない。ましてや「牛乳をこぼして雑巾で拭いている姿」など、到底想像もできないのです・・・
優介さんの目とは逆に、わたしは今や人びとは「生活感」や「みっともなさ」「みすぼらしさ」からほぼ脱したように思えるのです・・・
この投稿に関して、わたしと優介さんの決定的な差は、未だ人間は、「みっともない生活臭」を纏っていると見る優介さんと、すでに「人間らしい生活感を脱し、自然とではなく、デジタル機器と、無機物と共生するようになり、自らも進んで無機物になった人間の姿」を見るわたしとの相違でしょうか。
わたしは自他ともに認める狂人です。けれども、生身の人間だからこそ狂えるのだと思っています。「彼ら」は、狂えない・・・
わたしは自他ともに認める狂人です。けれども、生身の人間だからこそ狂えるのだと思っています。「彼ら」は、狂えない・・・
今回もとても興味深い投稿でした。このような優介さんの文章に接するたびに、学歴の無意味さを感じます。
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