2018年12月31日

「親子だから」


今年4月の東京新聞の『本音のコラム』の切り抜きがある。筆者は看護師の宮子あずささん。
タイトルは「親子だから」



今日で四月が終わる。四月は両親の命日が続く。父が十五日、母が十七日。父の死から十八年。母の死からも六年が経った。月日を経ても、思い出が蘇る月である。
母がいよいよ動けなくなった時、世話をする私に母は「あっちゃんなんでそんなにやさしくしてくれるの」と聞くようになった。母が求めている答えはわかっていて、「好きだからだよ」と言ってほしいのだった。
しかし私は、どうしてもそれだけは言えず、「親子だから」と、にべもなく答えた。母はごく親しい人の名をあげ、「○○ちゃんは好きだから、って言ってくれた」。すごく不服そうだった。
すねた顔を思い出すたび、申し訳なかったなと思う。それでも答えは変わらない。なぜなら、どんなに気が合おうとも、私たちは親子。逃げ場のない関係を引き受け、ついたり離れたりしながら生きてきた。「好きだから」といってはその根本が嘘になってしまう。
私たちは皆たまたま誰かの子に生まれ、親子として生き始める。そんな偶然の関係なのに、逃れようがない。友人や配偶者など、選択を経ての関係とは、ここが決定的に違っている。
だから何回きかれても「親子だから」。今もそう答えると思う。元気な時には「親子は友達にはなれない」と言っていた母。むくれながらも、本当はわかっていたと思うことにする。



これを読んだ時、わたしは「なんて冷たい人なんだ」と感じた。
当時この宮子さんの記事について母と話した。母は宮子さんのいうことが別に冷たいとは思わない、というようなことを言っていたように思うが、記憶が曖昧で定かではない。

「たまたま出来た関係」「逃れることのできない関係」親子の情愛など微塵も感じさせない口調。

世の中には、いくつものことなったタイプの人間がいて、そのひとつに「強い人」と「弱い人」があると思う。この場合の強さとは、あくまでも精神的な強靭さのことだ。
わたしは愛情・情愛の上に成り立っていないこのようなクールでドライな親子関係には到底耐えられない。

強い人間は自分自身の足で立つことができるけれども、わたしは抱き締めてくれる「愛情」を必要とするし、寄りかかることのできる「支え」を必要とする。更にいうなら、わたしは本能的に「強い人間」が怖い。
暴れて物を壊す精神障害者は怖くはないが、「自分の足で立っている人」、「しっかりしているひと」、たとえば精神科の看護師長である宮子さんのような人はわたしは苦手だし、「怖い」と感じてしまう。自分への「攻撃」でもないのに、その人が「しっかりした人」であるというだけで「こわい」と感じてしまうのはどういう理由からなのだろう。
さしあたって、何度も引用しているが、「健常であることの避けようのない暴力性」(辺見庸)ということだろうか。それとも彼ら / 彼女らの反論しようのない「正しさ」「真っ直ぐさ」「硬質さ」「冷静さ」そして自他に対する「厳しさ」・・・などへの生理的な拒否反応なのだろうか。わたしは映画『カッコーの巣の上で』の看護師長よりも宮子さんのほうがこわい(冷たい)と感じる。

宮子さんのこのような意見に対して、わたしは返す言葉を持たない。つまりあまりにも、あまりにも考え方が違いすぎるので、最早何も言うことがないのだ・・・


=追記=

あまりにも有名な言葉なので、ここに引くのも気が引けるが、レイモンド・チャンドラーの「人は強くなければ生きて行けない。やさしくなければ生きている資格がない」という言葉をふと思い出した。







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