2018年12月30日

Mon Dieu


矢川澄子の『受胎告知』を少しづつ読んでいる。

中でも「湧きいづるモノたち」は彼女らしい観念的な短編小説で気に入っている。

わたしは映画でも小説でも、簡潔に粗筋を説明するということが出来ない。

だから今日も、自分のための抜き書きとして、「湧きいづるモノたち」から抜粋する。





デュモンさんに片言の日本語で話しかけられたのは、ちょうどそんなときだった。
夕暮れの道で、見知らぬ巨漢がわたしに道をきいてきたとき、その返事がただの
I don't know.だけで終わらずに、いっしょにさがしてあげる、ということになり、それどころか進んでその人の傍らに行って手をとって歩き出したのだから、われながらどうかしている。こんなふうに心よりも体が先に立って動き出してくれたなんて、わたしとしてはめったにないことだったのだ。
あのときのわたしは、よっぽど大きさに飢えていたのだろう。父がなくなって、母がおかしくなって以来、わたしには依りどころがなくなってしまったということばかりではなかった。それ以上に、つい先刻まで話し込んでいた母の主治医の、人間的な卑小さが目交(まなか)いにちらついて、ほとんど反射的になにか大きなものを求めていたのだった。
人が信仰に走るというのは、おなじような心の空隙を感じたときなのだろう。わたしの場合求めていたものはただただ大きさであり、安らぎだった。デュモンさんの大きさたるや、傍らに寄り添って立つと小柄なわたしはちょうど彼のわきの下におさまってしまう寸法なのだ。「神のみつばさの下に」。どこかで習いおぼえたことばがふっと甦った。デュモンさんはそんなひとだった。少なくともわたしにとっては。


きくところによると、祖父自身は完全な人工栄養児で、母乳をほとんど吸ったことがなかったという。当時の銘柄品だったらしいが、もっぱら鷲印のコンデンスミルクのおかげでどうにか人並みに育ったとのことだった。
いまではあまり用いられなくなった和製英語にスキンシップということばがあるけれど、一頃あのことばをきくたびに、わたしは反射的に祖父のことを思い出してしまったものだ。母の胸に抱かれてその母乳を吸ったことのない子、それが祖父だった。あのひとがひどく観念的だったのは、もしかしてそんな生い立ちも関係しているのかもしれない、と、こちらは聞きかじりの心理学の知識で思ったものだ。
甘えを許さぬ環境。それが祖父の作った家だった。べたべた付きまとうのは恥ずべきこと、はしたないこととして最も忌み斥けられた。
母はしかし、そんな家風のなかで男の子並みに厳しく育てられながら、その後知り合った男である夫のいささか過剰な愛情表現が、かならずしもいやではなかったらしい。二年間の留学を終えた父の帰国を待っていざ結婚してみて、あちら仕込みの父の身ごなしにある戸惑いを覚えながらも、次第に馴れていったというのが実情ではなかろうか。
わたしの記憶にあるかぎり、母はなるほど人前では多少はにかみながらも、やはり父に肩を抱かれればうれしそうにしていた。
父が欠けたことによってわが家から失われたものは、じつにこれだったのだ。


今の母に欠けているのは父のHUGだ。わたしの素人考えでは、それさえあればすべては解決する。ただしそれは父のでなくてはならない。だれもその代わりはつとめられない。残された唯一の家族であるわたしがどう足掻いてみても、この欠落は埋められるわけがない。
(下線は原文傍点)


大聖堂の広場にて
岡の上の町ではほとんど真横から夕日が当る。
甃(いしだたみ)にデュモンさんの影が長く伸びている。
わたしはわざと、彼の影の中に立つ。
デュモンさんは大きいので、こちらはまるごとすっぽり、彼の影の中につつみこまれてしまう。
わたしはいまのところ、影のない女、なのだ。
春の日差しは弱々しく、夕暮れとともにうすら寒さがしのび寄ってきたので、わたしはコオトの襟を立てながら、思わず影を避け、少しでも日に当たれるように西日の中へ歩み出す。
影は二つになり、わたしはデュモンさんの腕にすがる。
風が立ちはじめている。





この「湧きいづるモノたち」は作者の生前には発表されなかったようだ。
『受胎告知』が出版されたのは2002年11月。その年の5月に彼女は自死している。
「湧きいづるモノたち」の主人公である女性(娘)はデュモンさんという自分をHUGしてくれる相手を見つけることで生き延びることができた。
けれども、その母は、夫である男性のHUGによってしか救われることはない。

「母の心とからだをひらく鍵は、彼女にとっておそらく唯一の異性である父にのみ委ねられていたのだろう。それが墓場に持っていかれてしまったかぎり、もう母の常態に戻る日は二度とやってこないのだろうか。

「あたしの目下思いつく唯一の解決策は、そりゃお父さんだけよ。お父さんが生きかえって、もとのようにしっかりHUGしてあげること。それしかないのよ。でもそんなこと、はじめから不可能にきまっているものね。

彼女の母にとって、代替の効かない存在であった「夫」(とそのハグ)が失われたことは、そのまま、母の、少なくとも内面の、魂の死を意味する。



何かとても大切なものが失われたのちも、尚生き永らえることができる人たちがわたしには不思議でならない。

何故、「〇〇の存在しない世界」に、尚彼らは生きているのか?
なにかが永遠に失われてしまったことで、最早自分自身も生きてゆくことができないという気持ちは、わたしにはまったく自然の感情としてよくわかる。

わたし自身、今、失われた東京の廃墟の上を歩くことができないでいる。
そして母の死はそのままわたしの命の終焉を意味する。

これはあくまでわたしの勝手な想像だが、この生前未発表作品では、矢川澄子自身が、実はデュモンさんという存在と巡り合うことによって生き延びることが出来た「娘」ではなく、かけがえのない存在を失い、自失している母に自身を投影していたのではなかったか。

矢川澄子の自死の原因をわたしは知らない。けれども、この短編は、なにかが(誰かが)喪われたことで生きることができなくなった人を描いているという点で、今のわたしの心の中に自然と流れ込んでくる。

デュモンさん、と聞くと、わたしは反射的にシャルル・デュモンというシャンソン歌手を思い出す。一番印象深いのは、ピアフと歌った、「モン・デュー」「わたしの神よ」という歌だ。

なだいなだ氏がパリ滞在中にピアフが死に、パリじゅうの人が嘆き、悲しむ姿を見たと書いている。そして彼女の死にショックをうけたジャン・コクトーがピアフの死の数時間後に亡くなったとも。








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