18日火曜日に新宿紀伊国屋ホールで行われた辺見庸の講演会には結局行かなかった。
後悔はない。今の状態では、仮に往復特急(指定席)を使っても、ここから新宿まで行く(そして講演を聞いて帰ってくる)体力はない。
少しづつだが、確かに、日頃わたしが自分を「狂人」と称しているそれとは別の、本物の、病としての(例えば「統合失調症」)狂気がこの身を蝕んでいるのを感じる。
誰とも(文字通り誰とも)通じ合えないという感覚は日増しに強くなっている。唯一の味方のように考えていた母とも通じていない。「母は実はわたしを疎んじているのではないか・・・」という思いに囚われるようになった。
今後母をも含めて、「他者」との隔たりは目に見えて広がるだろう。
ツェランではないが、
「彼らはわたしを愛さなかった。そしてわたしも彼らを愛さなかった」という状況が、のっぴきならない世界との断絶として立ち現れてくるだろう。「世界」は、そして「他者」は、わたしの目に悉く「敵」として映るだろう。
◇
もし仮に、18日の講演会に行って、質疑応答の時間があり、発言のチャンスがあれば、
何をおいても訊きたかったのは、『月』という障害者の殺戮をテーマにした小説を書き上げる際に感じたであろう「痛み」。そして、この本に込められているであろう「悼み」と、「会場での著者によるサイン本即売会」とは、あなたの中で、どのような地平で地続きなのか?と・・・
ここのところ彼のブログを見ていなかった。日頃散々悪態をついている朝日新聞のインタヴューに笑顔で応えている記事を見てから。
「無節操」・・・それになんだかうれしそうである。
いざという時に本の売り上げに一役買ってもらうのなら、日頃悪態など吐かぬことだ。
サイン本即売会などやるのなら、「万物の商品化」だのと「資本」を敵に回すような発言はしないことだ。
『月』はまだ読んでいない。図書館でも人気があるようで、わたしは「予約」が入っているような「人気の本」は読まないことにしている。
◇
昨夜、見切りをつけるつもりで、最早何の思い入れもなく、彼のブログを開いた。
どうせ講演会が盛況のうちに終わってホッとしたとか、遠方から、また寒い中来てくれた皆さんありがとうとか、そんなところだろうと・・・
2018年12月17日(講演の前日)
◎明日の講演について
明日の夕、新宿紀伊國屋ホールにあつまってくれる友よ。いかなること
ともうまく折り合いをつけられない友人たちのために、ぼくは言わなくて
もよいことを、ぶつぶつと言うだろう。
たとえば、「行旅死亡人」のこと。その可能性。その消息。失われた
その風景。その言葉のアルカイックなひびきについて。また、次第に
うすれゆく善と悪の境界について。「気持ち悪さ」について。そう、この
「気持ち悪さ」とはなにか?
「気持ち悪さ」とはなにか?
そして講演の4日前
マッド
◎『月』と狂人
昨夜、吠えた。醜く。身障老人がキレると手がつけられない。
キレたほうが加害者、どなられているほうが被害者ということ
になる。醜怪。目もあてられない。犬に訊く。犬いわく。「あ
んたがわるい・・・だれの目にも」
マカデミアナッツ1とユンケル2もろて帰る。ユンケルくれたひ
との体臭をかすかに知っている気がする。マカデミアナッツは
知らない。どうでもいい。やつらは商売、こちらは喧嘩。常在
喧嘩だ。
吠えるときは、はったりじゃダメ。本気でやる。死ぬ気、殺す気
で。どんなブタでも、いつ反撃に転じないともかぎらない。忘れ
ないこった。200冊サインさせられた。
歩けないと不便だ。憤然として席を蹴るということができない。
老健にいくしかない。老健でニューステップするしかない。
あと、平行棒。着座体操。ストレッチ。
折り合えなくなった。まったく。講演はする気がなくなった。
すこしも。『月』は好きな小説だ。が、しかたがない。
主催者は辞表をださなければならないという。なら、だせばいい。
こちらはとっくに辞表をだしている。世界に辞表をだしている。
意地汚いやつらの商売につきあってやる必要はない。
彼の中の苦しい葛藤が窺われる。
しかしそれでも講演を行った。それは果たして彼にとって、またわたしにとってよかったのだろうかという疑問が残る。
正直な気持ちを言えば、講演は中止してほしかった。
それが「いかなるものとも折り合うことのできないわたし」にとっては大きな励ましのメッセージになり得ただろう。どうしても折り合えないものには敢然と背を向ける、という態度を示すことによって・・・
そして12月12日の記事がいかにも辺見庸らしい。
2018年12月12日
◎着座ラジオ体操で
「ねえ、あんた、あんた・・・」。総合着座ラジオ体操の最中に
横から声をかけられる。頬のこけた老女。落ちくぼんだ目。
かわいた牡蛎。痩せた手がまねいている。わたしを。「ねえ、
あんたあ・・・」
みえなかったふりをする。聞こえぬふり。老女、車椅子からまた
手まねき。ささやくように「ねえ、あんたあ・・・」。知らぬふり。
でも、みている。呼びかけてくる。「お父さん・・・」。「ねえ、
お父さん・・・」
わたし、口のなかで、むむむと言う。「お父さん・・・」。すがるよう
に。執拗に。「ねえ、お父さん・・・」。「むむむ・・・」。指導員の
声。「××さん、お父さんはいないでしょ?」
入れ歯が合わなくなっているのだろう、小さくカタカタと音が
する。「ねえ、お父さんてば・・・もう帰ろ・・・」。「うん・・・」と
小声で応じる。境界はない。もう帰ろうか、とおもう。
インストラクターがくる。いっしょにマシーンにむかう。背中が
聞く。「ねえ、お父さん・・・」
何故か目頭が熱くなる。
この文章がわたしの知っている、わたしの好きな辺見庸だ。
この文章がわたしの知っている、わたしの好きな辺見庸だ。
「喜怒哀楽」── 「哀しみ」と「怒り」を知る者のみがわたしの味方だ。
「喜び」「楽しむ」人たちは、未だ「敵」ではないにせよ、所詮わたしとは縁なき衆生だ・・・
「喜び」「楽しむ」人たちは、未だ「敵」ではないにせよ、所詮わたしとは縁なき衆生だ・・・
ー追記ー
上記に書かれている「行旅死亡人」とはなんだろう?聞いたことのない言葉だ。
けれどもわたしはここで「ケンサク」はしない。いずれわかる時が来るかもしれない。
嘗て辺見はこのように書いた。
フランス文学者の鹿島茂も、最近の校閲はウィキペディアに頼りっきりで、事に外国文学に関する事柄は間違いが多くて仕方がないとぼやいていた。
全てがお手軽になった、そしてすべてが嘘になり、虚ろになってゆく。
0 件のコメント:
コメントを投稿