2018年12月25日

今話す言葉(Hとの対話)2


ヒトという種の主体意識は、すでにボロボロに解体され、守るべき規範など、権力者はあるかのように言うけれども、すでにまったくどこにもないことは、クソのような脳みその権力者だって承知している。ヒトはたんに現象であり、もはや本質ではない。まがりなりにもまともな脳みそというものをもった者は、とうに狂っているか、いわゆる正気よりも、狂気を肯定している。

と辺見庸は書いている。

「まがりなりにもまともな脳みそというものをもった者は、とうに狂っているか、いわゆる正気よりも、狂気を肯定している。」

ではそのような者に対して、また

いかなることともうまく折り合いをつけられない」

者に対して、いったい如何なる言葉が有効だろう?

自(おの)ずから病むことによって病んだ世界から辛うじて逃避し身を守っている者たち。それゆえ一切の世俗的な励ましや元気づけが悉く無効無意味である者たちに対して、果たしていかなる言葉、いかなる思想を届けることができるのか?
「病むこと」「狂うこと」そして「死ぬこと」・・・つまり「逃げること」以外に、われわれを「この世界から護ってくれる」言葉とは?思想とは?

嘗て彼の若き友人であった「確定死刑囚」(2017年死刑執行)に向かって彼が言い得たことは、つまるところ、「ワタシハ、イツデモ、キミノトモダチダ・・・」ということ以外にはなかったのではないだろうか?
そして透明の隔壁越しには不可能であっても、出来得るなら彼を抱きしめてあげること。

究極まで押し進めてゆけば、「いかなる言葉も無力」だという結論に至るだろう。



彼が、グズりながらも、結局は講演を行ったということにわたしは拘る。
講演をしたことで、彼が得たものとは何か?そして何を失ったのか?
最終的に彼が選び、そして捨てたものとは何だったのか?

断れば以後一切本の出版ができなくなる、というのなら、インターネットで発信すればよいではないか。少なくとも、この先生きている間、金の心配はないはずだ。

講演では「行旅死亡人」(こうりょしぼうにん)=「行き倒れ」「野垂れ死に」(広辞苑より)についても話したらしいが、講演会で、安くない謝礼をもらって、「野垂れ死に」について話すよりも、商売の具にされることを毅然として拒否し、その上で、「野垂れ死に」「行き倒れ」たほうが、本来の辺見庸ではないのか?
「野晒しを心に風のしむ身かな」芭蕉の句を思い出す。
いま必要なのは、壇上机上の賢しらな言葉たちよりも、温もりのある「抱擁」であり、心に覚悟の「野垂れ死に」といった、「身体を伴った思想」以外の何ものでもないのではないか・・・

それとも、「フーテンの寅さん」と「俳優渥美清」が別物であり、「庶民の代表」のように見られていた「寅さん」≠渥美清が、国から「国民栄誉賞」を授かった事例に倣って、
「作家辺見庸」と、生身の人間辺見庸は同一ではないと?

モノを書くことを商売にするというのは卑しいことだな。
「ナニモノカ」を演ずることとは・・・

「手紙や内的日記の類こそ、文学の領域で贋物から最も遠くにあるもの」と嘗てエミール・シオランが記したことをふと思う・・・









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