たしか「障害」の定義とは、「それ」によって、日常生活に支障をきたす場合、その症状を「障害」と呼ぶと昔読んだことがある。(曖昧な記憶を元に書いている)
たびたびの引用で申し訳ないが、わたしの「スマホ」への憎悪について、このような意見がある
O:Takeoさんは、読む限り、自分自身に対する憎悪をスマホに転化している気がしますね。
本当に問題なのは、Takeoさん自身のあり方で、その事にはご自身で気づいていると思うのです。
僕が言うのもなんですが、変わる良い機会かもしれない。
ここで言われている「自分自身への憎悪」とはなんだろう?「外に出ることができない自分」へのそれ以外には考えられない。
わたしは「彼ら / 彼女ら」の存在によって「外出が困難になる」という「生活上での支障」を蒙っている。
それが単に「あれ」に対する「フォビア」といわれるものであるのか?もっと別の入り混じった感情が「あれ」という対象に収斂されたものか、それはわたしにも不明だが、いずれにしても、「あれ」を見ることがわたしを精神的に苦しめているということは事実だ。
その上で、その憎悪は、本来「あれ」ではなく「自分自身」に向けられるべきだと彼は言っているのだろうか?
極論すれば、「そのような症状(障害)を持ってしまった自分をこそ憎め」と。
これを敷衍すれば、障害や病に苦しんでいるものは、その障害なり病気を恨まず、憎まず、己の運の悪さを呪え、ということだろうか?
それとも、「統合失調症」なり「鬱病」なり、その他様々な疾病・障害と、「ある対象へのいわれなき嫌悪乃至憎悪」とは全く別、ということだろうか?
そこにはいったいどのような違いがあるのだろうか?
あることに苦しめられている人間がいる。
彼が「自分を苦しめている対象」を憎むことは、ある場合には許され、ある場合には許されないとしたら、その区別は何に由来するのか?
Takeoさん、こんばんわ。
返信削除コメントにあった、教えてgoo見てみましたよ。
パキシルという薬のリスクは前に聞いたことがありました。
あと、そこには書いてませんでしたが、リスパダールという薬が人によってかなり違う反応を示すことがあるということも聞いたことがありますよ。
もちろん、予備知識程度に考えたほうがいいと思いますけどね。
で、とりあえず、僕が言えるのは、困ったときの「ジョニー・エイス」です。
「ジョニー・エイス」は、Takeoさんはきっと聞いたことあるんじゃないかと思いますけど、果てしなく優しい声ですよ。
ちょっとでも、癒されてください。
あと、ゴスペルだと『ミルキー・ホワイト・ウエイ』という曲が優しいですよ。
オリジナルは「トランぺティアーズ」で、ほかに「スワン・シルヴァートーンズ」や「スピリット・オブ・メンフィス・カルテット」なんかが、カバーしてます。
ソウルの「マーヴィン・L・シムズ」という人の『what can I do』も優しい曲ですね。
僕はこの曲が大好きなんですよね。
では、また。
こんばんは、ふたつさん。
削除クスリについての知識はほとんどありませんが、そのことについてもまた書くことがあるかもしれません。なんだかすっかりヘンなブログになってしまいました(苦笑)
ジョニー・エース。もちろん知っています。アーロン・ネヴィルが、なんだっけ、あの有名な曲をカバーしていますね。
なんだかここのところ、何をする気力もなくて、ちょっとお酒を飲んで寝てしまいます。もう長くないなあと思っています。
「スワン・シルヴァートーンズ」懐かしいなぁ。ゴスペルのCDも探せば何枚かあると思います。あまりドゥー・ワップのような感じのものではなく、もっとパワフルな感じのものが多いですが。
おしえてもらった曲、You Tubeで探してみます。
いや、なんとも気の利いたコメントをありがとうございます。