わたしがこの1年間フォローしてきたブログのひとつに「こうストーリーズ」という、おそらくわたしと似たり寄ったりの年齢の女性の日記がある。
彼女の最近の二つの記事と、今の自分の気持ちを重ね合わせてみる。
◇
2018年 12月 16日
今年のいいことって言ったって。
「今年のよいこと」というのが次回のエッセイ教室のお題である。
そんなことを言ったって・・・と思う。
娘が結婚した、子供が大学に合格した、孫が生まれた、ect.の出来事を書けというのだろうか。
わたしのいいことは、すべてが淡々と過ぎていったこと。
それだけ。
道端の草花や木々や、空に浮かぶ雲や、通り過ぎた赤んぼの髪の毛とか・・・。
そんなものにほっとするのが、また、ほっとする。
どうなるのかな、さっぱりわからない。
2018年 12月 22日
たぶん今年は。
やはり、今年はなにもなかったと。
どん底気分が続くことはなく
過去のことに思いが拘泥することもなく
先のことにやたら不安がることもなく
つまり、より、今のことに気持ちが向くようになったこと。
それが一番のことではなかったか・・・。
エッセイ教室の「今年のよかったこと」は
それになるのではないかと思う。
◇
「自分が幸せではないと感じている者は、今免れている不幸を思ってみればいい」
たしかシオランがこんなことを言っていた。
わたしにとっての「幸福」や「よかったこと」は、まさにこの言葉の通りで、「いま免れている不幸」の上にしかない。
だから、今年は(も)なにもなかったということが、とりもなおさず、しあわせなのだ。
過去の事、そう。わたしは過去の事ばかり考えている。
過ぎ去った歳月が「いくつもの不幸を免れている」という意味以上の積極的な幸福を持っていたと言い切れる自信はないが、それでもやはり、確かに今よりもわたしは生きていた。
先のことは全く考えない。意識的に考えないようにしているのではなく、いまのわたしには過去と現在しかないのだ。
そのせいだろうか、もう何年もカレンダーというものを買っていない。
こうさんのように、今目の前に映し出されている
「道端の草花や木々や、空に浮かぶ雲や、通り過ぎた赤んぼの髪の毛」にほっとする、ということもない。外界はただわたしを消耗させる。そしてなによりもわたしが愛でることのできるものが、まだこの世界に残っていると思うことができない。
わたしにとって世界は「きらびやかな廃墟」だ。
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