2020年2月25日

心の病とは何か?必要なものは何か? Y先生へ 2


現実的な問題を考えてみよう。わたしは一昨年辺りから電車で二駅の主治医のところまで足を運ぶことが困難になってきている。最近はもっぱら母に薬を取りに行ってもらっている。現実にわたしはいま、主治医のところに行けていないのだ。暑くなるとますます困難になるだろう。駅で、わたしはこちら側のホームから向かいのホームに目をやり、そこに整然と列を作り、無言でうつむいている人・人・人を見るのが苦痛だ。そして真夏、人々が日傘を差し、サングラスをしている中で、無駄に照らされているホームの明かり。電車の中での日本語と英語のチャンポンのアナウンス。(何故韓国語や中国語ではないのか?)── 正直もうわたしには電車に乗る「体力」はないだろう。であるなら、最早主治医の質は問題ではない。そこまで行くことが出来ないのだから。

わたしが「良くなるということはどういうことか?」ということに執拗に拘るのは、よくなるということが、カンカン照りの真夏の午後にホームに電気がつけられていることに、電車やバスの車内でひっきりなしに流される注意喚起のアナウンスに、そして件の病院の入り口前に5台10台と連なって客を待っているタクシーが、客が乗るまでアイドリング=排ガス垂れ流し状態で待ち続けていることに平気になることであるとしたら、それは鈍感になること、即ち「阿呆になること」と同義ではないのか?

わたしが「良くなる」こと「平気で外に出られる」ことに強い躊躇いがあるのは、「良くなること」が「醜いことに無感覚になる」ことと同じ意味に思えるからだ。

「世界が醜いこと」がわたしの「生きづらさ」の根源であり、「生きづらさの解消」が「醜さに平気になること」「醜さを受け容れること」「慣れる(馴れる)こと」であるのなら、それでもわたしは「良くなりたい」と思うだろうか?馬鹿になってまで?自分の美意識=「魂」を引き渡してまで?

ではそれなら「良くなること」=「阿呆になること」を敢然と拒否して、生きることを止められるのか?

そこに当然ハムレット的なジレンマが生起する。

こんな穢土に生き続けなければならない意気地なしの自分が情けないと思う。

もし誰かが、それは問題のすり替えであり、外界への責任転嫁だというのなら、話を聴こう。「わたし自身の」どのような問題を、外部の問題に転嫁しているというのか?

わたしの主治医も興味があるだろう。意見があるなら聞かせて欲しい。まさか「疾病利得」等と見当違いを言う者はいないだろう。今の状態のどこに「利」が、「得」があるというのか?

そして同時に、今日、この国では、少なからぬ人々が「病気にでもならなければ生きてゆけない」というパラドキシカルな状況の中で呻吟していることもまた事実なのだ。
そんな中、未だに「引きこもりは罪」「鬱は甘え」云々という無智と錯誤が巾を利かせている。
「真っ当な障害者」と「異常な健常者」との溝は深まるばかりだ。


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