「私が男性だったら、主体を失い、他者として物体化されることに無邪気に憧れることができただろう。」
二階堂奥歯
わたしは男性だが、どうしても「主体を失い、他者として物体化されることに無邪気に憧れる」ことが難しい。
差別のつもりはないのだが、そのためにはわたしは女性にならなければならない気がしてしまう。(それがなぜだかわからない)
また性別の如何を問わず、「主体を失い、他者として物体化されることに無邪気に憧れる」性向(マゾヒズム)にはどうしても馴染めない。わたしはむしろ「自分の意に反して、否応なしに、物体化」されること、状態に惹かれる。
二階堂奥歯は、自身「マゾヒスト」であり「フェミニスト」であると言っている。
性の領域に於いて、自分の特異性・独自性を知ることはわたしには難しい。
その点に於いても、「わたしはナニモノカ?」を知りたい。
◇
以下、2016年8月にQ&Aサイトに投稿した、「エロス考」からわたしの発言(返答)部分のみ抜粋引用する。わたしの、今も変わっていない、「エロス考」の参考として。
尚、当時のやり取りを読み返してみると、その時には全く目もくれなかった回答No.3・4の言い分にも、尤もだと感じるところがある。
全体のやりとりを一読いただければ幸いです。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9369554.html?isShow=open
◇ ◇
『拷問執行人のひそかな快楽は、必ずしも相手の肉体的苦痛を眺めることだけではないのである。肉体の苦痛とともに、相手の精神がよろめき、耐えられるぎりぎりの限界を超え、ついには肉体の共犯者となって屈服してしまうという、その精神の裏切りの過程を眺めるのが愉しみなのである・・・』
これは澁澤龍彦の『エロス的人間』の一節ですが、わたしにとって、これ以上的確に、究極的エロスの様相を表現し得たものを知りません。
エロスとは、「落差」によって生じるものではないか?
気高く誇りに満ちた精神が、肉体(の快楽)に裏切られること、悦びは堰を切って決壊し、精神が肉体の共犯者に堕してしまうこと、その瞬間こそが至上のエロスではないか?
この場合、エロスが成立するために、時間的な流れが必要となります。言い換えれば「文脈」です。
凛とした精神が「肉の共犯者」に堕するために要する時間的経過と変化の過程こそがエロスなのではないでしょうか?
一方で、目の前にある赤裸々な、あからさまな裸体というものには「落差」が存在しないが故に、そこにエロスは発現しない。
エロスーエロティシズムとは、この人間の「変化」(または昆虫に見られるような「変態ーメタモルフォーゼ」)にそのエッセンスがあるように思うのです。
◇
●「エロティシズム」と「ポルノグラフィ」とは、いわば「生(性)の紋切型」への反逆であり「性の編集術」です。
http://www.artnet.com/WebServices/images/ll00152lldyZCGFgp2qCfDrCWvaHBOcNat/pierre-klossowski-roberte-et-les-barres-parall%C3%A8les.jpg
わたしは画家バルテュスの兄で、画家であり作家・思想家のピエール・クロウスキーに惹かれるのです。
わたしは画家バルテュスの兄で、画家であり作家・思想家のピエール・クロウスキーに惹かれるのです。
エロスや変態性に関していえば、それは「生(き)のまま」の性に対するある種のレトリックです。文飾です。ですからそれは必然的に「反自然的」なものです。それは「理性との対立」、生殖という「生産」への対立、それへのアンチテーゼです。
エロスは性のアナキズムであり、それは「タブー」を犯した地点から発現します。
● エロスとは、また変態とは、本能に起因する生殖に抗います。エロスは「知的エンターテインメント」です。
エロスを求めることは、アートを、文学を、哲学を求める精神と通底しています。それは「即物的」な生に対する文飾であり、遊び心です。
言い換えれば、「凝る」ことです。
● およそ世の芸術作品、音楽や文芸作品、その他の「楽しみ」或いは「慰藉」と呼ばれるものは、人間存在のそのものから取り去ることのできない「不安」や「悲しみ」「苦悩」「孤独」「恐怖」「不安」といった、「欠如」「欠乏感」から、生きるための知恵、生存の方策として生み出されたものであると考えます。エロスもまた例外ではないのだと思います。
言い換えれば全ての「欠乏」から免れている「幸福なる人種」が、どこに存在するのか?という疑問が残るのです。
● エロスとは、また変態とは、本能に起因する生殖に抗います。エロスは「知的エンターテインメント」です。
エロスを求めることは、アートを、文学を、哲学を求める精神と通底しています。それは「即物的」な生に対する文飾であり、遊び心です。
言い換えれば、「凝る」ことです。
● およそ世の芸術作品、音楽や文芸作品、その他の「楽しみ」或いは「慰藉」と呼ばれるものは、人間存在のそのものから取り去ることのできない「不安」や「悲しみ」「苦悩」「孤独」「恐怖」「不安」といった、「欠如」「欠乏感」から、生きるための知恵、生存の方策として生み出されたものであると考えます。エロスもまた例外ではないのだと思います。
言い換えれば全ての「欠乏」から免れている「幸福なる人種」が、どこに存在するのか?という疑問が残るのです。
● ヴォルテールの、「もし神が存在しないというなら、それを発明しなければならない」という言葉を借りれば、
「もしエロスが存在しないのなら、それを創造しなければならない」
つまり、もしキミにとって一義的な性しか存在しないのなら、キミのための性(エロス)を発明/発見しなければならない。言い換えれば、「一義的な性」は非・人称的な、みなのためのもの、或いはヒトという種の性の姿であって、わたしの、あなたの、「性」ではない。
https://i.pinimg.com/564x/54/10/c4/5410c40beed4b6284fa7ebef3dae0b3e.jpg
「もしエロスが存在しないのなら、それを創造しなければならない」
つまり、もしキミにとって一義的な性しか存在しないのなら、キミのための性(エロス)を発明/発見しなければならない。言い換えれば、「一義的な性」は非・人称的な、みなのためのもの、或いはヒトという種の性の姿であって、わたしの、あなたの、「性」ではない。
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