2020年2月28日

「天、予を喪せり」 絶望ということ


愛弟子顔淵を若くして失った時、孔子は「天、予(われ)を喪(ほろぼ)せり。」と慟哭した。しかし孔子は「喪(ほろ)び」なかった。何故か?彼にとって、弟子顔淵とはどのような存在であったのか?
ひとは、己を己たらしめている外部/何者(モノ)かを喪って、尚生き延びることが可能なのか?それは何故?

今のわたしは顔淵亡き後の孔子に似ている。「天、予を喪せり!」
「その後の世界」に生き延びることにどのような意味があるのか?

顔淵亡き後「元気になる」ということは浮薄以外の何を意味するのか?

「心の病とはなにか?必要なものは何か? Y先生へ」を書き終えた時、公開前に母に読んでもらった。
最近は書いたものを読んでもらうことが多くなった。

母は「絶望してるんだね」と誰に言うともなく言った。

母は「死を前に書くということ」の投稿の中で、希死念慮の女性に対し、
「彼女は死にたいんじゃない、絶望してるんだ」と言った医師の言葉を読んでいない。

いったい「絶望」とは「心の病」だろうか?
それを治癒するとは如何なる意味を持つのか?

底彦さんは「自分はこの苦痛を取り除いてもらいたいから精神科に通っているのであって、再度社会の歯車になることを目指している訳ではない」と。

底彦さんの苦しみは取り除かれるべき苦しみであり、いかにわたしが、人間の尊厳は苦悩の裡にあると言っても、底彦さんに、苦しみ続けてくださいとは言えないし、言うつもりもない。

わたしと底彦さんの苦しみは本質的に違う。

わたしの苦しみはわたしという実存と不可分の苦しみだ。

本質的な苦しみとはいえ、苦しみから楽になりたい。けれども、それは、「生」の方角にあるとは思えない。そして取り除かれていい痛みだとも思えない。



『傑作絶望シネマ88』という本の中でドリアン助川が『髪結いの亭主』について書いている。

『 愛というものが、確たる存在のように感じられる「時」がある。そして同じ「時」によって、それは奪い去られる。マチルドはそのことをよくわかっていた。だからこそ、人間の力ではどうすることもできない「時」の流れに楔を打ちこもうとした。それは「時」が用意した私たちの在り方から逸脱することだ。すなわち、死ぬか、狂うか、この二つをもってでしか「時」とは対峙できない。

マチルドを突然失ったアントワーヌも、残りの一つの方法で「時」から逃れようとする。彼は静かに狂い、美しい妻が消えてしまった理容室で、彼女がいるはずの偽の時間を生きていこうとする。

こうしたことは、映画の中だけにあるのではない。わたしの最寄り駅には、夕方になると現れる一人の老いた男がいる。彼はブツブツ呟きながらホームを行ったり来たりする。
「おかしいなあ。あの子は四時には帰ってくるっていったんだ。あの子は四時には...」
おそらくはもうずっと前にお子さんを亡くされた人なのだろう。この人はそのような別離を引き起こした「時」を信じようとはしなかった。お子さんがいらっしゃった「時」にしがみつき、その中で生きようとした。だから、狂うしかなかったのだ。』














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