2020年2月8日

下投稿の補足


精神科医がその臨床経験に基づいて人間の内面生活に関する議論を展開しようとする場合、それが科学的に見ても哲学的に見ても十分な厳密さと普遍性を欠くきらいがあり、そこにある種の「うさんくささ」のようなものが混じり込むのは、避けがたいことであるように思われる。これはかならずしも、臨床精神科医が科学者あるいは哲学者としての必要な習練を怠っているという理由だけに還元しうることではない。臨床の場面では、患者と治療者の個人的な関係が議論の出発点となるだけでなく、その窮極の拠り所ともなるし、この関係の中でのみ見い出されうる事実が、そこで唯一「真実」としての拘束力を持つ。
この真実の「関係的」な性格が、そこに一般的な科学的あるいは哲学的な「真実」とはいささか異なった趣を持ち込んでいるとしたらどうだろう。

すでに早くから「臨床の知」を標榜している中村雄二郎は、演劇と学問の関係について次のように書いている。

《演劇或いは芝居というと、一般にはおよそ学問や知とは無関係のもの、さらには本質的に相容れないものと思われてきた。……すなわち、演劇=芝居とは、多かれ少なかれ猥雑さを含んだ一種の絵空事であり、遊びであり戯れである。……他方、知や学問は根っから真面目なものであり、われわれは感情や好みを出来るだけ排して、ひたすら禁欲的に真理を極めなければならない、と。遊びと真面目(あるいは仕事)という二分法がそこに想定されている、といってもいい》(下線部は傍点=中村)

そして中村は、古代ギリシャと西欧で発達した知や学問は、この「二分法」を基準として普遍性と精密さを備え、「近代の知」として人類全体に大きな影響力と支配力を持つようになったと考える。

もちろん精神科の臨床は「絵空事」でも「遊び」でもない。それは「真面目」な「仕事」である。しかしそれにもかかわらず、いまこれを患者と医者(より一般的には治療者)以外の局外者の立場から見るとき、それがこの二分法ではどうしても知や学問ではない方の側「多かれ少なかれ猥雑さを含んだ」営みの側に分類されるであろうことも確かなことのように思われる。だからこそ中村も「演劇的知」をただちに「臨床の知」と言い換えているのである。

 (中略)

科学も哲学も、それが普遍妥当的な「真理」の探究を窮極の目標とする以上、それは「誰にとっても」開かれた、追試可能・再現可能、そして報告可能な、要するに三人称的な知を求めるものでなくてはならない。それに反して精神科医療の場で得られる「知」は、当事者である患者と治療者のみに占有された「私的」で一人称的な性格をその本質としている。治療者が変われば患者の言うことも変わる、診断も変わるし予後も変わる、というのが精神医学ではほとんど常識になっている(だからこそそれをいくらかでも客観的・科学的にしようとする努力から、治療者の主観を最大限に排除した「質問表」によって症状を聞き出そうとする「標準化面接」や、その結果を一覧表に当てはめて量的に操作しようとする「操作診断」の方法が案出されているが、これが ── ことに患者の立場から見た場合 ── 精神医療の理想から遠く離れた物であることはいうまでもないだろう。)
[……]このような考察にあたっては、自己にしても生命にしても、それを一人称的に(つまり臨床的に)見たときと、三人称的に(科学的あるいは哲学的に)見たときの見え方の違いについて、われわれはつねに敏感でなくてはならない。

ー 木村敏『関係としての自己』第Ⅷ章「生命的差異の重さ」(2005年)より
(太字著者、下線Takeo)



精神医療に於いて、患者と治療者(支援者)との間に極めて良好な「関係」が結ばれずに、「治癒」ということは考えられないのではないだろうか。
言うまでもなく精神の疾患・障害とは「関係性の病い(障害)」に他ならないのだから。






 




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