「フッサールの意味での現象学的エポケーの先駆者であったデカルトが、有名な懐疑の実験を開始する前に、この懐疑によって彼自身の生活世界の自明性が危機にさらされるのを予防する目的で、「世間の人」として幅広い常識を身につける努力を行ったことについては、精神病理学者のW・ブランケンブルクも注意をうながしている。生活世界の自明性が危機にさらされるということは、健全な日常性が脅かされるということであり、それはそのまま「理性の喪失」へ、「狂気」へとつながりうるものものだからである。」
この部分にわたしは哲学の、真理の探究者としてのデカルトに不純なものを感じてしまう。つまりデカルトは先ず、疑う以前に「安全圏」を確保してから探究を行った。彼は殉教者のように「己の信ずるところ」に命懸けではなかった。その時点で、既に彼は「純粋」ではない。
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