2020年2月20日

混乱、惑乱、そして錯乱・・・


○ フーコーの顔がすきだ

紅葉を見た。経験の起点とは、「死」を背負う狂気、
「死」を背負う逸脱、「死」を背負う異常といった
限界概念のあなぐりだろう。

われわれを「根源的な不安」にひきわたすものーー
こそがいま読むに値する言説である。血の凝りがけふ
の青空に浮かぶ。嘘のような晴天。血。

無宿者を見た。新顔。背後に紅葉がある。流血として。
「狂気、死、性的事象、犯罪」こそが重大事であると
いふフーコーの顔。

すでに戦争である。

2019年12月12日




Hのブログの文章である。とてもうつくしい。心惹かれる文章だ。

けれどもこれは「詩」である。「韻文」である。では韻文とは何か?
書かれている内容は妥当性に欠けるが、その文体(様式)の美によって説得力を持つ文のことだと誰かが言っていた。

昨夜わたしは今日、この「美文」に言及しようとしていた。けれども今は気が変わった。


生きていることが苦痛である。

最近はこれまでに比べてあまり「自死」のことを考えなくなった。
けれどもたまにそのことを考えるときには、嘗てなく真剣に考えている。
具体的な場所まで思い浮かべている。「あの学校の屋上から飛び降りたら死ねるだろうか?しかしどうやって屋上までたどり着く?」といった風に。

片目が見えないストレスが日増しに昂じている。そして手術までまだ3か月。仮に手術がうまくいって、この目が回復するのは6月である。正直それまでまともでいられる自信がない。このストレスは直ちに「仮に目が良くなってどうするのか?」という疑問に結びつく。病の存在が、己の生の根拠を突き付けてくる。

わたしにはどうしても、ここにとどまる必然性を見出すことができない。
「何故生きる?」何故?・・・わからない。自殺企図が次第に現実味を帯びてきたということは、わたしには望ましいことのように思える。

Hの言葉に戻ってみよう。

「経験の起点とは、「死」を背負う狂気、「死」を背負う逸脱、「死」を背負う異常といった限界概念のあなぐりだろう。」

何故「狂気」を背負う生、「逸脱」した生、「異常」とされる生ではないのだろう。「「死」を背負う狂気、「死」を背負う逸脱、「死」を背負う異常」とはそもそもトートロジーではないのか?死を背負わない狂気、死を背負わない逸脱、死を背負わない異常というものがはたして表象可能だろうか?

「生」を「正」「死」を「負」とした場合、辺見は負に負を掛けている。
問題は正と負の拮抗・葛藤であり相克ではないのか?


「われわれを「根源的な不安」にひきわたすものーーこそがいま読むに値する言説である。」

しかし今日、人間存在に関する「根源的な不安」など存在し得るだろうか?木村敏風に解釈するなら、「人間の根源的な不安は狂気の裡にこそある(現れる)もの」ではないだろうか?(今日メデューサの首を見て石にな(れ)る者はいない。そして「根源的な不安」の淵源をのぞき見ることのできるほどの者は、夙に石化している・・・)
「われわれ」を、ごく一般的な「普通の人々」の意味に取るなら、最早「われわれ」は「一切の根源的なるもの」を感知する能力を喪失してる。


「無宿者を見た。新顔。背後に紅葉がある。流血として。」

背後の紅葉はあくまでも紅葉でしかありえない。「流血」という暗喩は最早誰にも伝わらない。無宿者の背後にあるのは真新しいビル群。味も素っ気もないコンクリートの箱であって、流血とは辺見の見間違いに他ならない・・・

「「狂気、死、性的事象、犯罪」こそが重大事であるといふフーコーの顔。」

少なくともわたしにとっての最重大事とは、「いま・ここにある」現実以外にはない。
何故なら「狂気、死、性的事象、犯罪」これらはすべて、詩・文学の領域に属するものだから。「狂気、死、性的事象、犯罪」── かつてこれらは「人間存在」と一体であった。けれども今日、これらは「現実世界」の、言い換えれば、今日的人間存在の「外側」にあるものであるから。人間存在から「疎外」されたものたちだから。



わたしはいまや自分が一個の(持続的な)人格であるとは思えない。その日の天気、その時の気分で、いうこともやることもころころと変わるだろう。その中の或る一日に、「飛び降り」という行為が混じっていても、最早それは特別なことではない自然なことなのかもしれない。


最早手綱はわたしの手を離れた・・・










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