2020年2月14日

この生命誰のもの?(再掲)


現在、相模原の「津久井やまゆりえん」障害者殺戮について被告植松聖の公判が行われている。

過去の投稿を眺めていたら、障害を持って現代の日本社会に生きることについて書いた記事を見つけた。このことについては改めて考えなければならない問題として、当時の投稿の一部を再掲する。



この生命誰のもの? [2018年6月29日]


人はすべからく生きるに価するのか?それとも、「生きるに価する存在」と「生きるに価しない存在があるのか?」
どう考えても簡単に答えの出せる問題ではない。

わたしは自分自身を生きるに価する人間の側に入れてはいない。入れることができない。
そしてわたしのように感じ、考えている人は決して少なくないはずだ。
生きるに価する存在か否か?それは一体何を基準に、誰が裁くことができるのだろう?
わたしじしん、彼・彼女自身は、自分の意思で自らのいのちを絶つ自由を有する。
自分には生きる価値がないのだと、考え、感じ、主張する自由を持つ。



ここに『私的所有論』という立石信也氏の本の書評がある。
本を読んでいないので、書評にある断片的なことばからの判断になるが、

評者の森岡正博は
障害者を産んだらとてもしんどいことばかりだし、自分も子供も不幸になるという考え方は本当に正しいのか。まず、障害者を産んだらその本人が可哀想だと考える人は、「自分の子供は自分の持ち物である」という発想に凝り固まっているのではないかと立石さんは言う。こどもの人生が不幸かどうかは子供自身が決めることだ。

現実的に考えて、21世紀現在の日本で、在日韓国人の子供として生れて、仮にその子供と家族がいかにいたわり合い、愛し合っていたとしても、彼らは果たして「幸福」になり得るだろうか?
20世紀初頭の欧州に、ユダヤ人として生まれてきた子は、どのように幸福になり得ただろうか?

特定の時代・地域で、特定の民族・人種であること、疾病や障害などで、「健常者」と呼ばれるその他大勢と「違う」ということは、如何に強い家族の愛を以てしても突き崩すことの出来ない巨大な壁の前に立ち竦むことではないのか?

「私的所有」ではない。好むと好まざるとにかかわらず、望むと望まざるとにかかわらず、生れてきた子供は、ある時代、ある国、ある社会、そしてある文化の内部に生きる。
言い換えればわたしたちは誰もが、時代に、国に、社会に、その文化に緩やかに(或いは強く)「所有されて」いる。

「障害は(自他ともに対して)不幸しか生まない」という植松聖の言葉は、決して狂気の沙汰として、また全くの見当違いと切り捨てることはできない。

障害を持って生まれてきたことは絶対的な不幸ではない。そのような人たちが、安心して普通に生活できる環境さえあれば、彼ら、彼女らは確かに幸福になることはできるのだ。

一方で、子供の自責の念というものも考えなければならない。
いかに親に、周囲の人たちに愛されようとも、自分の存在が彼らの負担になっていると感じることは、障害を持つ者たちの共通の思いではないだろうか?
愛されれば愛されるほど自責の苦しみが増す。そんな悲しいパラドクスは、単にわたしの歪んだ物の見方のせいなのだろうか?

書評は続けて
障害者だとわかった上で出産を決意し、喜びも苦しみもある「普通の」人生を送っている親たちが現に存在する。
「五体満足な子供を持つためには何でもする」という誘惑に、ぎりぎりのところで踏ん張って抵抗し、「子供の生命の質を選ばない」という選択肢をゆっくりと納得しながら選び取ってゆく、そういう道を立石さんは探そうとする。

親は、家族は、我が子の生命の質を問わないという決心をしたとしても、そのような属性を持った個々人が帰属している社会が(作為・不作為を問わず)生命の質を選別するという現実があるのだ。
「犯罪とは病気そのものではない。症状なのだ」という言葉に従うなら、「植松聖」とは、この深く病んだ社会の「症状のひとつ」なのだ。

『私的所有論』は1997年に出版された500ページ近い大部の書である。

1997年といえば、アウシュビッツから生還し、1987年に自死したイタリアの化学者ー思想家、プリーモ・レーヴィの死後10年に因んで、ローマで「プリーモ・レーヴィ、ヨーロッパの作家」と銘打たれた集会が催された。
その集会で、レーヴィの友人であったユダヤ人の教授は、ブレヒトの言葉を引いてこう言ったという

「あのモンスターを生み出した子宮はいまだ健在である・・・」










5 件のコメント:

  1. こんにちは, Takeo さん.

    Takeo さんが 2 月 14 日に書かれた「この生命誰のもの?(再掲)」という文章に対して少し考えたのですが, コメント欄が閉じられてしまったのでメールで伝えさせてください.

    以下の私の文章の扱いは Takeo さんにお任せします.

    -=-=-=-

    > 人はすべからく生きるに価するのか?それとも、「生きるに価する存在」と「生きるに価しない存在があるのか?」
    > どう考えても簡単に答えの出せる問題ではない。

    難しい問題ですが, 私の中にもほとんどいつもこのような問い掛けがあると感じています.

    象徴的だった津久井やまゆり園の事件は私にとっても忘れることのできない事件です.
    それは, 一つには植松聖の思考を押し進めて行った先にある標的に私も含まれ得るということ, もう一つは私自身の中に植松聖と同じ根を持った考え ── 世の中には抹消されるべき命がある ── があるということがわかったこと, からです. これは恐ろしいことでした.

    答えの出る問題ではないと思っていますが, いくつかの煩悶を経て辿り着いたあくまでも現在の私の考えは, 「生きるに値する存在」「生きるに値しない存在」とは少なくとも他者が判断することではなく, 当事者の内省の場においてその生は一旦前提とされる, その先は当事者に委ねられるというものです. 周囲は少なくともその過程には関わるべきではないと思っています (これについては最後にあらためて述べます).

    私自身について言えば自己否定の意識や過去の記憶に晒されながら, 世界の中での自分の立ち位置を模索するための心の在処を認めると言えばいいでしょうか.

    森岡正博氏の書評に関しては, 言っていることは上の私の考えと合致するようにも思うのですが, なぜか第三者的で傍観者的なコメントに感じられてよく理解できませんでした. 特に後段の

    > 障害者だとわかった上で出産を決意し、喜びも苦しみもある「普通の」人生を送っている親たちが現に存在する。

    という文章は何だか他人行儀で冷酷な気がします.

    Takeo さんは植松聖の「障害は (自他ともに対して) 不幸しか生まない」という言葉を, 全くの見当違いと切り捨てることはできないと述べています. 言葉だけを取り出してみれば確かにそうなのかも知れません.
    しかし私は, 植松聖へのインタビューや公判での発言から読み取れる思想を私なりに判断した限りでは, 彼の言う「不幸」とはかなり限定的で底の浅いものであり, 少なくとも Takeo さんが念頭に置いていると思われる「不幸」の深刻さまで至っていないと感じています. その意味で違和感がありました.

    植松聖の言葉全般から感じ取れることなのですが, 彼の思想は彼の置かれた表面的な状況から思い付いた考え, 気分に流されて発想された考えの域を出ていないように思えるのです. 彼がナチスが障害者を虐殺した T4 計画にも言及していた事実が確認されたとも聞きますが, 彼の認識はナチスが障害者を殺した事実があるという表面的な部分に留まっていて, その背後にある優生思想までには至っていなかったと思うのです.
    逆に言えば彼が, 「周囲と意思疎通ができない」障害者は「皆の不幸しか生まないから」「皆の迷惑だから」(これも植松聖の言葉です) という極めて浅薄な思考から障害者を殺して排除してしまった, 優生思想が導く極地にまで到達してしまったというところこそが, Takeo さんが仰っているように彼がこの深く病んだ社会の「症状のひとつ」なのだと言えるのではないでしょうか.

    だから私はこの事件が恐ろしいのです. 難しいことを考えずに簡単に植松聖の真似ができてしまうように思えるのです.

    なぜなら, その種は誰の心の中にもあると思うからです.

    ここには過去から現在に至る世界の人びとが, おそらく一人の例外も無くその内に宿してきた「差別」という意識が深く関わっています. ほんの少しの小さな差異が, 集団や権力や社会システムの歯車に引っ掛かることで障害者や病にあるものの前に巨大な障壁を築き上げてしまう.

    植松聖の浅薄な思想を許容してしまう, 下手をすれば容易に第二の植松聖を「症状のひとつ」として生み出してしまう現代の社会の深い暗闇と病の有り様が, 私にとってはあの事件の, そして自分が生きている世界の中での巨大な恐怖なのです.

    その意味で Takeo さんが引いている, プリーモ・レーヴィの友人の教授が述べたという「あのモンスターを生み出した子宮はいまだ健在である・・・」という言葉は非常に恐ろしいのです.

    この不条理に対して小さな者に何ができるのでしょう.

    最後に, 私が最初に述べた考えは現実の中では破綻するということを述べておきたいと思います.

    たとえば, 正しく植松聖が標的としたように, 現実の施設なり家庭の中において「意思疎通の行えない」当事者に「生きるに値するか」の場を与えることはできるのか・判断を委ねられるのか, 委ねたとして結果を周囲は認識することができるのか.
    たとえば, 生まれる前の胎児に深刻な疾病・畸形などの症状があり出産してもごく短い時間しか生存できないと判明した場合, 一体誰に何を委ねるというのか.
    等々, 周囲が介入する以外に無いのではないか, と言わざるを得ないような局面が多々あります.

    それでもやはり, 私はその「彼ら」に生を委ねることを望みたいですが, どうすればいいのでしょう.

    -=-=-=-

    ブログのコメント欄を閉じられたことは Takeo さんが深く考えた結果なのだと思います. ですから私のこのメールは Takeo さんにとっては厄介事でしかないのかも知れません. そのことは申し訳無いと思っています. ごめんなさい.

    ただ, 私はもう少し Takeo さんと話がしたいと思いました. それが無視という結果に終わったとしてもです.

    昼間は少しづつ暖かくなってきたようですが, まだ朝晩は冷え込みます.
    くれぐれも Takeo さんが体調など崩されませんよう祈っております.

    底彦

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    1. こんばんは、底彦さん。

      先ずコメントについては、別に熟慮の末の決定ではありません。昔からそうです。わたしには強い「見捨てられ感」というものがあります。ある意味で、自分を中心にした考え方です。つまりコメントがない、連絡がない、電話がないのは、「相手のなんらかの事情ないし都合」とは考えずに、一直線に「ああ、飽きられたんだ」「見切られたんだ」と考えてしまうのです。その根拠になったのが、2月に入ってから誰からもコメントが来なくなって2週間が過ぎたということです。こんなことはこれまでありませんでした。ひとりで待っているのも寂しいので扉を閉じたというわけです。また開けましたけど。

      ここ数日の投稿をご覧になってもお分りのように、わたしは非常に気難しく、猜疑心が強く狷介な人間なのです。それでいて人一倍寂しがり屋であるという厄介な人間です。この底彦さんのコメントは素直にうれしく思っています。



      わたしは2008年に起きた秋葉原の事件については、当時から多くを語ってきました。そしてそれは主に、加害者である加藤智弘へのシンパシーの形で表現されています。底彦さんも覚えているかもしれませんが、実際当時は、加害者に少なからぬ共感が(主に若者から)寄せられていました。ところが、わたし自身の変化ということもあるのでしょうが、この事件については、当初からあまり興味を示しませんでした。正直現在も強い関心はないのです。── ではほんとうにわたしが何事にも、人の生き死ににも関心を示さなく(示せなく)なったというのであれば、なぜわたしは執拗に二階堂奥歯に、石原吉郎に、そしてプリーモ・レーヴィに拘るのか?

      それはさておき、先ずわたしが一番知りたいのは、底彦さんが言われる、

      >私自身の中に植松聖と同じ根を持った考え ── 世の中には抹消されるべき命がある ── があるということがわかったこと

      これはどのようなことを言われているのでしょう?

      ご存知のように、わたしは「刺客」という存在を認めています。そして「テロル」をも否定しません。

      あらゆる革命家は、ゲバラであれ、ジャンヌ・ダルクであれ、安重根であれ、「殺されてしかるべき者」を想定しています。そして、虐げられし者たちには、フランス革命が示したように、その権利があるとわたしは思っています。
      そしてそれ以外の「殺されてもいい」「殺されても構わない」「殺されても仕方がない」いのち、存在というものを知りません。底彦さんの思いを是非聞かせてください。公開が憚られるのなら、メールのみにても構いません。
      そしてその回答によって、わたしが底彦さんを切るということはありません。

      今日内科に行ってきて、薬局でこの事件についての報道が映されていました。内容は、遺族のひとりが、「わたしの娘の未来はあなたによって奪われた、だからあなたにも未来はいらない」といったものでした。

      わたしは以前から繰り返し書いているように、死刑制度に反対する者です。このブログでも数回書いたかと思いますが、主に、以前のブログでその理由を述べています。

      更にまた底彦さんが

      >過去から現在に至る世界の人びとが, おそらく一人の例外も無くその内に宿してきた「差別」という意識が深く関わっています.

      いかにひねくれもののわたしでも、ひとりの例外もなく心の奥底に差別の感情を宿していた、という発想はありません。確かに、何を以て「差別感情」と定義するかによって、意見に食い違いが生まれることはあります。わたしのいう「差別」とは「優越感」と「蔑視」です。しかし差別の厳密な定義以前に、わたしは底彦さんが、「過去から現在に至る世界の人びとが, おそらく一人の例外も無く」・・・という強い確信を持っていることに驚きを隠せません。なにが底彦さんにそう思わせているのでしょう・・・



      確かに底彦さんの「生きるに価する生命」「生きるに価しない生命」に関する論理は破綻しています。何故なら、その根拠を当人の内省に求めているからです。であれば、当然、その内省が不可能な人たちは、「生きるに価しない」という結論に導かれてしまいます。
      わたしはまず、例えばやまゆり園に入居していた人たちに無条件で生きる権利を認めます。生命の土台に、先ず、一切の条件付けをせずに、ということがなければ、条件次第では、誰もが殺されてもいい存在になり得るのです。誰もが。

      そして、その次に、自らの内省によって、自分は生きるに価しないと考えるのは当人の意思です。しかし繰り返し強調したいのは、あらゆる条件付けを排するということ、他者の介入はあくまでも、その生命を補助し、保護するという形によってのみ、許されます。
      底彦さんは、「内省」という知的営為を、生きるに値するかどうかという根拠・条件にしているために、「それができない人」がこぼれおちるという論理的な破綻をきたしているのだと思うのです。

      あらゆる生命をそのあるがままに認めること、それが「社会」に課せられた第一の義務ではないでしょうか。

      「あのモンスターを生み出した子宮はいまだ健在である・・・」

      このブレヒトの言葉は人類が存続する限り言われ続けるでしょう。では私たちに何ができるのか?わたしの答えは、それこそ、内省です。選別のための内省ではなく、彼ら、彼女らは、無条件の生命なのだという確信を深めるための内省です。
      物言えぬ者は無条件で護られるべき、守らなければならない存在だと思います。
      生命を、単に生命として慈しむこと。Because~ではなく、Just Because!

      まとまりませんが今のわたしに言えるのはこの程度です。
      また考えがまとまればぜひ意見を聞かせてください。

      底彦さんもあまり無理をなさらぬようにご自愛ください。

      繰り返し、コメントをありがとうございました。

      不一





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    2. 追記

      https://pobohpeculi.blogspot.com/2018/08/blog-post.html 

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    3. こんにちは, Takeo さん.

      返信をありがとうございます. 上記のリンク先の「汝殺すなかれ(考える義務 Ⅳ)」も読みました. 大切なことが書かれていると思いました.
      少し時間を置いてもう少しじっくり読んでみたいです.

      > それはさておき、先ずわたしが一番知りたいのは、底彦さんが言われる、
      >
      > >私自身の中に植松聖と同じ根を持った考え ── 世の中には抹消されるべき命がある ── があるということがわかったこと
      >
      > これはどのようなことを言われているのでしょう?

      津久井やまゆり園の事件について私は先の文章で, 植松聖が極めて浅薄に思える考えに基いて虐殺を行ったと書きました. 彼が持っていた差別の意識はやまゆり園での障害者介護の仕事の中で育まれたものだという節が有力ですが, こんなに簡単に殺してしまうのか, という印象が私にとっては大きかったのです.

      ここに書くのは自分の中にある醜い意識であり, Takeo さんも不快に感じるかも知れません. 現在は考え方も少しづつ変わっているのですが私の中から消え失せてはいません. 幾分被害妄想の気もありますが書いてみます.

      やまゆり園の事件が起きたのは 2016 年ですが, 当時の私は 2013 年頃から続く酷い鬱でほとんど死人のようだったのです.
      そんな中, 自己嫌悪と自己否定, 罪責感などに怯え苦しむ一方で, 時折奇妙な憤怒の感情に襲われてもいました. これは私にとって異常な事態です. 鬱になって以来それまでの私は, 怒るということがほぼ無かったからです.
      まだ組織に属していた時に, 産業医から「最近怒った経験はありますか」と聞かれていつも「ありません」と答えていましたから (鬱の状態を計る目安になるとかのことでした).

      自分のように内向的で大きな声を上げられない者, 自分をアピールできない者, おとなしい者が強者 (多くの場合, 声が大きく人を恫喝し支配しようとする者のことが多かったように思います) にいいように利用され, 付け入られ, 疲れ果てて傷付き消耗していく状況, 鬱病という心の病が人としての弱さ・欠陥のように見なされて罵倒され人格やそれまでの生き方まで否定される状況を思い出す中で, そのような感情が強まっていったのでしょう.

      ラジオでニュースなどを聴いていると嫌な事件ばかりが耳に残ります. 聴く都度に沈鬱な気持ちになるのですが, 一方で私を激怒させていたものがあり, それは子どもが殺される事件でした. 私の中ではそのような事件が連続して何件も起こったように記憶しているのですが, 記憶違いかも知れません. 当時のことは記憶が欠落している部分もありますし思い出さないようにもしているので.
      なぜあれほどの怒りの感情が湧いてきたのかもわかりません.

      大抵の場合, 虐待の末に子どもの命は奪われていました. 追い詰められて自死に至ったケースもありました.
      最も弱い存在である子どもに対してそのようなことを行った大人や親やあるいは同級生だったり, に対して「この連中は殺していい」と感じ, その怒りの感情を何度も心の中で反芻していました. 怒りが治まるとなぜだかほっとして気分が少し楽になるのです.

      やまゆり園の事件を知って私は, この感情はその短絡性と浅薄さにおいて根は植松聖と同じだと感じたのです. 極めて暴力性の強い暗い闇の感情だと思ったのです.
      思うだけならいいだろう, と言うにはあまりに激しく制御できない怒りの感情で, 落ち着いて考えると私は自分がやはりあまりにも弱い存在であると思わざるを得ないのです.

      > 更にまた底彦さんが
      >
      > >過去から現在に至る世界の人びとが, おそらく一人の例外も無くその内に宿してきた「差別」という意識が深く関わっています.
      >
      > いかにひねくれもののわたしでも、ひとりの例外もなく心の奥底に差別の感情を宿していた、という発想はありません。確かに、何を以て「差別感情」と定義するかによって、意見に食い違いが生まれることはあります。わたしのいう「差別」とは「優越感」と「蔑視」です。しかし差別の厳密な定義以前に、わたしは底彦さんが、「過去から現在に至る世界の人びとが, おそらく一人の例外も無く」・・・という強い確信を持っていることに驚きを隠せません。なにが底彦さんにそう思わせているのでしょう・・・

      私自身の体験, ですね. 上に書いたような中で「鬱病になる弱さ」を大勢の前で罵倒され怒鳴られた経験, 周囲でその様子を眺めていた仲間たちの好奇や冷笑に満ちた表情を見たことで, そんな風に考えるようになったのです.
      尤もそのような体験・記憶は自分の中で相当増幅されてもいると思うのですが, 何とも言えません.

      > あらゆる生命をそのあるがままに認めること、それが「社会」に課せられた第一の義務ではないでしょうか。

      これが最も尊重されるべき考えです. 完全に同意します.
      「社会」という以前に「個々人」が, としたほうが現在の自分にとっては腑に落ちるかなとは思います. 自分がこのように考えることがまだできないので.

      私が先の文章で述べた, 現実の中で破綻してしまう私の考えですが, ああならざるを得ないのは私の弱さだと思うのです.

      一つわかっているのは, 精神や心というものは確かに壊れるものだということです.
      それでもおそらく私の身体は, 全力でそこから回復しようとしているのだとは感じています.
      いくつかの過去の場面の記憶が失われていたり, 思考力が低下して論理的に考えることが困難になるのもその現れなのではないかと思います.
      その意味で人間の身体というものは凄いものだと思います.

      ただ破壊され歪められたものはどうやっても元通りにはならないことも確かのように思うのです.
      私自身が昔は嫌悪していたような醜い感情が, 歪められた心の隙き間に繁ってきているのに気付くのは苦しいものです.
      そういうときは軽い嘔吐感に襲われますね.
      ですからあまり自身の感情を揺らさないように, できるだけ見ないようにしているのです.

      ここまでが書こうとしていたことです. 読み直してみましたが, 特に書き直す必要も無いようです.
      一日か二日考えてから書くつもりでしたが, それでは無理だったでしょう.

      私は吐き出して一つ楽になれた部分があります. 読むのは不愉快だったでしょう. ごめんなさい.

      文章を書くという行為は不思議ですね.
      私は自分のブログは記録のつもりでできるだけ感情を排して書いています.
      ブログとは別に紙の日記も付けていますが, それも淡々としたものです.
      それでも文章を書くことで癒されていると思うのです.

      全てから逃げ出して入院して死人のように休んで, 退院してその後一昨年くらいまで「呪いのノート」というものを付けていました (苦笑).
      制御できない怒りの感情に襲われたときにそのノートに書き殴ります. 一冊終わったら破いて捨てます (本当は燃やしたかったのですが燃やせる場所が無くて駄目でした).
      これで救われたところがあるのですが, この文章を書いていて久し振りにそのときの感覚を思い出しました.

      随分と買い込んだノートは 5 冊ほど余りました. これらのノートは心の御守りのようになっていますが, とりあえず昨年から勉強用に使っています.
      ノートもそのほうが嬉しいだろうなと思います.

      Takeo さんの絵画のブログなどからも時々不可思議な烈しさや狂った感じ (ごめんなさい) を受けることがあります.
      そして二階堂奥歯さんのブログにも.
      そういう感性というのは表出してしまうものなのではないでしょうか.

      リンク先の文章について, 何か書けそうならまた書きます.

      削除
    4. こんばんは、底彦さん。

      連日の長文のコメント、ありがとうございます。お疲れでしょう。

      先ず、わたしが先のコメントで「えっ!?」と感じた、底彦さんの言葉、

      >私自身の中に植松聖と同じ根を持った考え ── 世の中には抹消されるべき命がある

      これについての今回のお答えは、正直「なあんだ!」という感じでした。だって、上にも書いたように、わたし自身、弱い者を虐げるものは殺されても構わないと書いています。そしてこのように考えるのはまったく自然な感情であり反応だと思います。

      ── ただ、「だから死刑に!」という前にちょっと待って考えようよ、とわたしは思うのです。底彦さんは、ご自身の感情を植松と同根だと仰るけれど、全然同根だとは思わない。寧ろ正反対であり、対峙する思考であると思います。

      このまったくあたりまえの感情を、どのような経路を経てか、醜い感情であると思ってしまうところに、寧ろ、底彦さんの心の闇の深さを思います。

      底彦さんはご自分の「殺してもいい命」の存在を認める自分を植松聖と同根と言いますが、同根というのなら、寧ろ、「彼を死刑にしろ」という大勢とではないでしょうか。わたしは死刑制度には反対ですが、可能ならば、「復讐」というものを認めています。「死刑」=国家による抹殺と、個人的な「仇討ち」とは本質的に異なります。
      繰り返しますが、わたしは底彦さんの言っていることは全く醜い思考とも、植松と一緒とも考えません。ご安心ください(笑)

      人間は、不幸にして、自身が最も嫌っていた醜い感情を抱いてしまうことがあります。けれども、焦点をその感情自体に向けずに、そのようにねじ曲がってしまった「過程」を、決して自らの責ではないのだと考えられればと思います。

      わたしは底彦さんがベトナム帰りで、ある意味精神の崩壊を来した男が主人公である『タクシー・ドライバー』を観て、どのような感想を持つのか、興味があります。
      同じ「アメリカン・ニューシネマ」でも、『カッコーの巣の上で』や『俺たちに明日はない』『イージーライダー』に比べると、幾分「ハッピーエンド」に思われますが、わたしの好きな映画の一本です。
      これは「お薦め」ではありません。わたし自身、誰であれ、薦められて、観たり読んだりができないので、人に薦めることもしません。あくまでわたしの勝手な空想(?)です。

      「呪いのノート」ですか。いいですね。好きですそういうの。読んで不快だったでしょうと言われますがまったくそんなことはありません。

      わたしは自分のブログに「内面(狂気)の記録です」と明記しています(苦笑)
      底彦さんに限らず、わたしのブログに、狂気を嗅ぎ取られたとしても、別に今更驚きません。とはいえ、底彦さんなりに、「たけおさん、あなたは狂っている!」といわれればショックでしょうけれど。

      二階堂奥歯に関しては、わたしは嘗て一度も彼女に「狂気」めいたものを感じたことはありません。わたしに比べて遥かにまともだと思っています。「まとも」=「みんなのように」ということではありません。

      どんなことでも構いませんので、また思うところがあれば、気軽に書いてください。

      尚、前のコメントが幾分エラそうな感じを受けられたとしたら、申し訳ありません。
      (普段のブログでもそうですが、わたしって、どこかエラそうでしょう?)(爆)




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