2020年2月16日

再び辺見庸について、他雑感…


わたしのメールに対して、『純粋な幸福』担当編集者が電話をかけてきてくれて、辺見庸の気持ちを縷々20分近く「説明」(弁解でも、言い訳でもない)してくれた。それで気が晴れたわけではないが、わたしは『純粋な幸福』を読んだ。

わたしは今だに辺見庸に対してわだかまりを持ち続けている。わたしは「不純であること」を許容できない。わたしはアル中を許容する。ヤク中を非難しない。盗みも、殺人も、状況によると思っている。ただ、金と名誉に敏い者だけはどうしても許容できない。
そしてなにより言行不一致ということに我慢がならない。



久し振りに辺見庸のブログを訪れる。

相変わらず人の心を掴む言葉が並んでいる。



●「世界各地の反戦・反基地闘争に比べれば、辺野古の闘いは穏やかすぎるくらいだ」(2015年)。目取真俊は知っている。ひとが何人か殺されでもしなければ、国家はうごかないということ。民主的な闘争などありえないこと。最期は「独り」ということ・・・。
[2月13日ー目取真俊]

120%同感だ。


● さとくん報道は(も)最悪だ。ある種のディープフェイクじゃないか。えっ、社会は重度障害者にやさしいです?! 嘘つけ。
[1月26日ージョセフ・ヘラー]

※さとくん=辺見庸の小説『月』に出てくる障害者殺戮犯=植松聖

わたしはTVを見ないしラジオも聴かないので、さとくん報道については不明。だが、「日本の社会は障害者にやさしい」は、真っ赤な偽り。


●「世界とは同意すべきではない何事かである」。もしくは、世界などない。
[1月23日ーMAX-D]


そして2019年12月29日の「読者カード」


○これもひとつの激烈な邂逅であるとおもう

マヒ激の日。目がかすむ。平衡感覚なし。共同通信記者、
毎日新聞出版編集者とランチ。編集者が『純粋な幸福』の
愛読者カード(コピー)をもってきてくれた。69歳の
パーキンソン病の女性読者。書字のふるえを詫びている。


清冽な精神、伝えようとする心の強度、孤独の深み・・・。
ごじしんの痛みのなかから拙著を読んでいる。だれも知ら
ぬ淵に沈み、あえぎながら言葉を発している。


がん闘病中の60歳の男性。「何度も読み返してみたら、少し
ずつわかりかけてきた。死ぬ前に読んでみたい、もう一度だ
け。わかるような気がする」。震える。

「サンデー毎日」の拙文(「韓国について何を知っていのか?」)
への感想も読ませてもらった。83歳の元都立高校教員、79歳の
シナリオ作家らのきわめて、きわめて真摯な投稿。

世の中棄てたものでない、などと言うまい。ただ、原稿をしたた
め、読んでいただく薄暗がりの模索と読者とのめぐりあいに、こ
のたびはなにか激烈な火花が見えた気がしている。


「読者カード」は当然メールではない。すべて読者の手書きである。
奇しくも2019年8月、同じ「毎日新聞出版」から内田樹(たつる)という人の『生きづらさについて考える』という本が出ている。わが市の図書館では、現在予約が15人。
一方、辺見庸の『純粋な幸福』は翌9月に出版。わが市の図書館では、現在在庫中。
これを見ただけでも、どちらが中身が濃いかがわかるだろう。

これらの読者カードを受け取ることが出来ただけでも、作家冥利に尽きるだろう。
うらやましい。


このたび拙ブログのコメント欄を閉じた。わたしにはコメントをもらえるだけの文章は書けない。故に不要。

このブログを「スマホを罵っているだけのブログ」と見做している人がほとんどだろう。
それは誤りではない。わたしにとって「スマホのある世界」とは、ほとんど生きることが困難なくらい息苦しい世界なのだ。そしてそれを誰かと共有できるとは思わない。
しかし誰とも共有することが出来なくても、すばらしい読者カードを手にすることがなくとも=素晴らしい読者を持てなくても(=持つ力量がなくとも、の意)自分の文章を書きたい。

もう一度、辺見庸のブログの中の言葉をくり返す。


「世界とは同意すべきではない何事かである」










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