2020年2月15日

率直な疑問


こんにち、21世紀の社会で、20代の若い男女が、生来の重大な疾病や障害もなく自殺するということがあるのだろうか?そもそも「スマホ」を持っている者が、自殺するほど「悩み」「苦しむ」ということが可能なのだろうか?

これは「スマホ」が彼らの脳を白痴化させるという意味ではない。
「スマホ」なしでは生きてゆけない者が、スマホがありながらも死を選ぶということがわたしにはわからないのだ。
そもそもスマートフォンは人生のあらゆる難題・困難を解決してくれるものではないのか?

「20代の若い者でも自殺するし、自殺したものの中には、スマートフォンを持っている人もいる」といわれても、俄かには信じがたい。自殺者のスマホに何らかの故障があったかどうかという調査は行われているのだろうか?

わたしの疑問は晴れない。



現象学はエポケー「判断停止」の概念を導入した。現象学的にいうと、この概念はデカルト的懐疑の方法を徹底的に推し進めることによって、自然な態度の克服に到達するために、世界の実在性に対するわれわれの確信を排除するという操作を意味している。これとは別に、人間は自然な態度の中でもある特定のエポケーを ── ただし現象学者のいうそれとはまったく異なったエポケーを ── 使用していると言えるかもしれない。これは外的世界とその諸対象に対する確信を排除するものではなく、むしろ逆に、この世界の実在に対する懐疑の方を排除するものである。(現象学的社会学者 A・シュッツ)

フッサール現象学のいうエポケーが、私たちの日常を支配している「自然な態度」の遂行を一時停止して、自己や世界の存在に関する素朴な確信を「括弧に入れる」ものであったのに対して、シュッツのいう「自然な態度のエポケー」は、逆にこれらの確信に対する一切の懐疑を停止して、これを括弧に入れる。この「自然な態度の(自然な態度に属する)エポケー」 こそ、私たちが生きている日常生活の巨大な自明性を保証して、これを「健全」に保つ「生活の知恵」にほかならないだろう。

フッサールの意味での現象学的エポケーの先駆者であったデカルトが、有名な懐疑の実験を開始する前に、この懐疑によって彼自身の生活世界の自明性が危機にさらされるのを予防する目的で、「世間の人」として幅広い常識を身につける努力を行ったことについては、精神病理学者のW・ブランケンブルクも注意をうながしている。生活世界の自明性が危機にさらされるということは、健全な日常性が脅かされるということであり、それはそのまま「理性の喪失」へ、「狂気」へとつながりうるものものだからである。

しかしこのことは、逆にいえば、精神生活の健全さが危機に瀕している精神病や神経症の患者たちにおいては、シュッツのいう「自然な態度のエポケー」が充分に機能せず、むしろデカルト/フッサール的な「懐疑」が病的に肥大して、自己や世界の存在に関する素朴な確信が「成立不能」に陥っているということである。
(下線、太字Takeo)

ー 木村敏『関係としての自己』第Ⅰ章「私的な「私」と公共的な「私」」(2005年)より









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