愛する者を喪った後(のち)も、まだ生きてゆけるということが理解できない。その「鈍感さ」ではない。その生命力の強靭さが理解できないのだ・・・
わたしの生命(いのち)の、そして生存の根拠はわたし自身の裡にはなく、「愛し・愛される」対象の裡にのみ存在している。このようなことを書くのは、今年になって母の「滅び」というものをこれまでになくなまなましく意識するようになったからだ。つまり母の目に見える衰えと新たな病気の発症。
母の滅びは直ちにわたしの滅びを意味する。「親亡き後」はわたしには当てはまらない。
置かれている状況の如何を問わず、何故ひとは「天涯孤独」で生きてゆくことが出来るのか。
無論身寄り頼りなく、それでも淡々と生きている人は少なくない。わたしは彼ら/彼女らを「不思議」だとは思わない。けれどもわたしはそれほど強くはない。
もののついでにまたぞろ二階堂奥歯の「眼差し」についての話をしよう。
(例えば彼女は2002年4月6日の日記でも、「眼差し」について記述している)
◇
「人間性」とは感情移入される能力のことであり、感情移入「する」能力ではない。
ほとんどすべてのヒト(ホモサピエンス)が人間であるのは多くの人々に感情移入されているからである。ヒトでであるだけでまずヒトは感情移入され、人間となる。
しかし、人間はヒトに限られるわけではない。感情移入されれば人間になるのだから、ぬいぐるみだって人間でありうるのである。
そう、ピエロちゃんは人間だった。私が人間にしたのである。「した」と言う言い方は傲慢だ。言い換えると、ピエロちゃんは私にとって人間として存在していた。
上に書いたようなことを私は小学校1年生ながら理解していて、すさまじい責任を感じていた。なぜなら、ピエロちゃんに感情移入しているのは世界でおそらく私一人だったからだ。ピエロちゃんが人間であるかどうかは私一人にかかっていた。これは大きな責任である。ピエロちゃんに対する責任に比べると、この意味での責任を例えば生まれたばかりの弟に感じることはなかった。私一人弟に感情移入しなくたって世界中のおそらくすべての人間は彼を人間として扱うだろうから。
私がピエロちゃんが人間であることを忘れてしまったら、ピエロちゃんはきたない布切れで構成されたくたびれたピエロのぬいぐるみに過ぎなくなってしまう。それは人殺しだと私は思っていた。私がピエロちゃんをどこかに置き去りにしてしまったらピエロちゃんを見た人間は誰一人ピエロちゃんを人間だと思わないだろう。忘れもののぬいぐるみだと思って捨ててしまうかもしれない。
そして実際私はピエロちゃんを忘れ、ピエロちゃんはどこかにいってしまった。
ピエロちゃんはいつのまにか捨てられた。殺された。
違う。私が、ピエロちゃんを、殺した。
(私が子供を産まずペットを飼わないと決めている理由の一つは、私がピエロちゃんを殺した人間だからである)。
二階堂奥歯『八本脚の蝶』2002年12月5日その1
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これもこのブログで過去に何度か引用した文章だ。
わたしと母との関係は、まさにこのピエロちゃんと二階堂奥歯との関係に等しい。
言い方を換えれば、母以外の他人は誰一人わたしを愛し得なかった。わたしに感情移入し得なかった。
しかし今となってはそのこともわたしの特異性として誇れることではあっても、決して卑下する必要はないと感じている。わたしが愛されなかったことも、誰もわたしを愛せなかったことも、運命なのだろう。
わたしが母のいない世界で生きることが出来ないということは、二階堂が、ピエロちゃんの例を以て申し分なく説明してくれている。
これ以上の説明は不要だろう。
わたしはこの一文をことのほか愛している。
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一方遡って2002年3月13日その2ではこう書かれている。
私は一人で立っていられないほど弱いのかと問えば弱いと答えるしかない。
だからたまに自分を支える物語が欲しくなるけど、それは転落であり不誠実な態度だという気持ちがいつもつきまとう。
いつでもその根拠を支える根拠を問うことができる。だから信仰はいつも仮のものだ。現実はいつも定義されたところのものだ。
これに根拠はない。しかしこれを現実としておこう。そうやって日々を生きている私が、今更どのような自己欺瞞を行えば何かを信じることができるだろう。
それでも私はほっとしたい、何かを信じたいと思ってしまう。身を投じてしまう。
これは偽物、架空のもの。これの正当性に根拠はない。私の信仰によってこれは信仰に値するものとして聖化される。そう意識しながらそれでも行う信仰には最初から破綻がつきまとっている。
だから、破綻する前に、この(私によって)聖化されたものと、聖化されたものによって価値づけられた私を凍結したいのだ。
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彼女は『八本脚の蝶』の中で頻りに「信仰」について言及している。
これについて、わたしは「愛」の根拠を問うことの無意味さを感じる。
順序がさかしまになってしまったが、この記述の前には、以下の文章がある。
自分の死を、生を、存在を価値づけてくれる何かを今更信じるなんて出来るだろうか。
初めて親しくなった異性が生涯一人きりの異性だったころなら、運命の人を信じることができたかもしれないけど、私はすでに何人もの人を愛してしまった。この人が最後の人だなんてどうして思えよう。
愛という名の無償労働という言葉を知った上で、母性ファシズムという言葉を知った上で、どうして無邪気にも傲慢にも愛を特権化できるだろう。
宗教を信じた結果のオウム事件。国家を信じた結果の、主義を信じた結果の……。
破綻した物語を超えてさらに何を新たに信じることができるだろう。
何かを信じるということは、目をつぶり鈍感になることだ。
それによって生まれる単純さによって安らぎと強さを得ることが出来る。
自分で立たず、大きな価値にくるみ込まれて「意義のある」人生をおくることができる。
でも、それは偽物だ。
◇
これを説明するには、これが書かれた五日後、2002年3月18日の日記による補足が要るだろう。そこにはこのような一文がある。
「私が死んだら悲しむ人がいて、私がいたらうれしいという人がいる、そういった私的な支え合いの中で生きています。」
二階堂が愛を特別視できないのは、彼女が、「愛されざる者」でなく、自分が死ねば悲しむ者がいる。私がいたらうれしいという人がいる、という「事実」を彼女自身が知悉しているからだ。
彼女にとって、To Love and To Be Loved 「愛し、愛される」関係は日常であって、何ら特権的なものではない。愛し愛されるという関係が何ら特別な意味を持たない以上、愛する者の喪失が、自己の喪失に繋がることはない・・・
二階堂は、
自殺しても
悲しんで呉れる者が無い
だから吾輩は自殺するのだ。
という夢野久作の歌集『猟奇歌』からのこの一首をどう感じるのだろう。
◇
最後に、「愛する人(もの・生物)」を喪った人に、「彼/彼女は、あなたの心の中で生き続けている・・・」という言い方を屡々耳にするが、わたしは昔からその意味がわからなかった。世界は、外界は、感覚によって存在している。笑顔を見ることも、話すことも、触れることも出来ない存在がいったいどこに存在しているというのか・・・
それゆえ彼女の2002年12月7日の記述はまったく理解できない。
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こうして、われわれの前から永遠に消え去った人物はみずからが自己の内部に取り入れた対象であり、自己によって良い対象でありながら二度と再びめぐり会えぬ失われた対象となっていく。これこそわれわれが常に掴もうとあがきながら、掴みそこねる失われた対象としての対象aの一つの現世的な姿だとはいえないだろうか。そこで逃れて失われてしまった対象とは、外部の他者のようにみえて、その実、自己の内部に生み出された極めて内的な自己像だったということができるのである。
主体の消失がその補完物としての対象aを誕生させたように、対象の喪失はそれをとおして欠けてしまった自己の姿を映し出す。この両者は合わせ鏡のようにその欠けた縁を重ねて、はじめにあったはずの主体の欠如を反復する。対象aは失われたという資格で世界のどこにでも登場し、主体はこれら消え去った対象に橋渡しされることで、彼岸に投擲された十全なる存在と逆説的にその関係を保とうとする。ここでも失われたという事実が、ひるがえって、かつてたしかにそれが存在したという確証として対象aにアリバイを与え、それを無限の遠点へと先送りしている。
(福原泰平『ラカン 鏡像段階』講談社 現代思想の冒険者たち13 1998.2)
失われたそれは、失われたというまさにことによって特権化された(それの意図に反して)。
それは、求めても得られないがゆえに、いつまでも求め続けることが可能な存在になった。たどり着くことの出来ないその名のもとに、過去形という形でしか存在できない、幻の「失われた楽園」が現在において創造される。
失われたものは特権的ななにかではない。その価値は、「失われた」というその一点にあるのだ。明らかに。
それはわかっている。
◇
ポルトガルの作家、ジョセ・サラマーゴは次のように言っている。
「最大の苦しみは、「その瞬間」に感じられるものではない。それは、あなたが、そのことに対してもはや何事をもなしえないと悟った時に感じられる。
「時が癒してくれる」と人は言う。だが我々はその理論を裏付けるほど長くは生きないのだ」
"The worst pain … isn’t the pain you feel at the time, it’s the pain you feel later on when there’s nothing you can do about it, They say that time heals all wounds, But we never live long enough to test that theory…"
— José Saramago “The Cave”
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