2020年2月10日

あらゆるものがフェイクになる時


東京新聞の書評コラム(?)「大波小波」に、ニック・ドルナソという作者による「グラフィック・ノベル」(所謂アメコミ)『サブリナ』という作品が紹介されていた。
(日本では昨年10月に早川書房から藤井光訳で出版されている)

それによると、「この作品の中心にあるのは「フェイク」という概念だ。あらゆる事実がフェイク(虚偽)として相対化され、人間は行動や判断の基準を失ってゆく。その時人が必要とするのは、憎悪し、打倒すべき敵である・・・云々」

なんだかわかりにくい。あらゆる既存の価値が「フェイクとして相対化される」というのならわかりやすいのだが、あらゆる事実が・・・といわれるとわかりにくい。

いずれにしても、「客観的な拠り所」のない世界というところに強く惹かれる。「客観的な」とは、言い換えれば、「わたしの外側に」と同義だ。

「あらゆる価値が相対化され・・・」ああ、なんという蠱惑的な響きだろう。

わたしが最も嫌うのは全体主義=ファシズムだ。そこには唯ひとつの、絶対的な価値=拠り所しかない。それは例えばヒトラーであり、天皇であり、毛沢東であり、スターリンのような。

わたしはみなが(全体が)同じ価値観に則り、同じように考え、同じように行動することに生理的な嫌悪感を覚える。わたしの「スマホ嫌悪」も結局はそこに行きつく。「スマートフォンの価値」というものを誰もが認めている。(無論稀に例外はあるだろうが)そんな世界が息苦しくてたまらないのだ。

あらゆる価値が相対化されるということは、なんという風通しの良さだろう。スマホの価値も、オリンピックの価値も、憲法九条の価値も、テクノロジーの進化という価値も、すべてが相対化される。無論「殺してはいけない」「盗んではいけない」というモラルさえも。それでもわたしは全体主義・絶対性よりも、相対主義を採る。「殺すなかれ」「盗むなかれ」という価値が絶対的ではなくなるということは、「殺すべし」「盗むべし」ということを意味しない。

早速図書館に『サブリナ』を予約しようとしたら、生憎地元の図書館には所蔵がない。
都内の区市に何館か所蔵があったが、どこも、10~20人待ちだ。
ひとまず『サブリナ』は措いて、早川文庫JAから出ている牧野修の Mouse(マウス)でも読んでみようか。


ー追記ー

「スマートフォンの価値の相対化」── スマートフォンというのは、単にハードウェアに過ぎない。スマホの価値の相対化とは、即ちGoogleの価値の相対化であり、Amazon.comの相対化であり、SNSの相対化だ。成程ツイッターではあらゆる言説が飛び交い、全ての価値は相対化されているように見える。けれども、誰が何を投稿しようと、彼らは自分が「諾」といい「否」という場=「Twitterの価値」だけは疑わない。── 彼らはSNSの空虚をツイッターに呟く。

わたしはいまこうして、パソコンからブログに拙い文章を投稿している。けれども、それを「IT産業の崇拝者」として唾棄し否定する者がいたら、わたしは彼の言い分を認めるだろう。


















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