2020年2月26日

治癒ということ


終末医療を除く医療行為というものの最終的な目標が治癒であり、生き延びることであるとするなら、わけても精神や心の領域を扱う精神医療に於いては、そもそも他ならぬこの「わたし」にとって、「治癒」とは何を意味し、如何なる状態を指すのかを知らずに医者にかかるということは無意味なことだと思われる。


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3 件のコメント:

  1. こんにちは, Takeo さん.
    ここ数日の Takeo さんの文章を読んで考えたことがあったので書きます.

    一つは Takeo さんにとっての心の病への意識に関すること, もう一つは Takeo さんの生への向き合い方に関することです.

    以前から Takeo さんは「心の病」とは何か? 「治癒」とはどういうことか? という問いを繰り返し投げかけています.

    精神科に通い始めた頃には, Takeo さんにも少なからずそこに通うことで生きづらさが改善していくだろうという思いがあったのではないかと推測します. けれども最早そのような思いは Takeo さんの中で希薄になってしまっているようですね.

    さらに精神科に通い続ける意味にも疑念を抱き, 「治癒」に関しても, もし「自己をとりまく環境と融和し得ず、友好的関係を結べない場合、心が癒えるということはあり得ないはずだ」と言い切っています.

    Takeo さんの自らの謂いである「狂者」に関する一節

    > わたしは自分を「狂者」だとおもっている。
    > 「狂者」と「こころを病んでいるもの」とは似ているようで違う。
    > こころを病んだ者は、きっと「修繕」の可能性を持っている。
    > けれども「狂者」はそれ自身全い実存であって、何らかの欠損の結果ではない。
    > つまりそれは「壊れてしまった人間」とは異質の存在だ。

    には「心の病」を治療する精神科という場所は, 「狂者」の存在への問い掛けに答え得る場所ではないという宣言のようにも聞こえます.

    これには私にも一部頷けるところがあります. 精神科における治療プログラムの一つの典型的な流れに次のようなものがあります.

    「通院・薬の投与・カウンセリング・入院」 → 「デイケアでの社会復帰への準備・就労支援施設でのトレーニング」→ 「作業所での就労体験」→「障害者枠もしくは一般枠での雇用」⇒ 社会復帰

    この過程に私は, 「狂者」の実存や「心の病」の苦しみがまるで工場のラインで修理されていくような印象を受けてしまいます. もちろんこの中に登場する主治医や保健士さんなどの中には, 全力で患者と向き合ってくれる方々も数多くいます. Takeo さんの主治医もそのような方のようですね.

    それでもなぜ私たちはこの「ライン」に乗せられて「修理」されなければならないのでしょうか. 私は最近になってこれは少なくとも自分にとっての「社会復帰」の道筋ではないと考えるようになっています.
    私は苦しみから解放されたいがために精神科やデイケアに通い続けているのであって, 再び社会の一部品になることはできれば拒絶したいのです. そのような中で正しく私の心は壊れたので.

    Takeo さんの立場は異なります.

    Takeo さんはこの社会の醜さに堪え難く引き籠もり, 時に自己の生にも否定的になり, そのことに苦しんでいるように見えます. しかし私と大きく異なるのは, Takeo さんはその苦しみから逃れることに然程積極的ではないように見えることです. 寧ろその苦しみ自体が自分を形成する一部であり替え難い自我でもあり, それ故にその実存の深淵に歩みを進めるのが自分であると認識しているのではないでしょうか.
    それ故に自分は「心の病」ではなく「狂者」なのだと.
    もし的外れな見解であったらごめんなさい.

    そういった Takeo さんの姿は, 「社会」にとっては完全に理解不能な「異端者」なのではないでしょうか.
    ただ, 私はそのような異端の者に名前が与えられる世界であってほしいと思います. 彼らは著しく異なった者ではあるでしょうが, 苦しみの中で常に存在への絶えざる問い掛けに晒されています.
    人間の根底には必ずそのような根源的な問いがあります. そのことは決して忘れるべきではないと思うのです.

    したがってその点で私は Takeo さんの側に立ちたいと思っています. Takeo さんの苦しみには比べるべくもありませんがシンパシーを抱きます.

    ここに述べた異端者の「実存の不安」とでも言うべきものが, この社会のシステムの中で表面的に「心の病」に分類されて診断名を付けられているようにも感じるのです.

    此処に至って「では彼らはどんな仕事ができるのだ」「彼らは何の役に立つのだ」という問いは, 完全に異なる次元でのものであり意味を成さないでしょう. このような問いに当たり前に帰結してしまう局面があまりに多いことが, この社会の底の浅さを表わしているとも言えるのではないかと考えています.

    ここからは, 私が Takeo さんの文章から考えた二つ目の事柄 ── Takeo さんの生への向き合い方について ── になります.

    小説や映画やその他の芸術表現などでしばしば取り上げられるテーマに「地を這い擦ってでも生きる人間」というものがあります. 地獄の中にあっても, 泥にまみれても, 穢れてしまったとしても生き抜く姿が描かれる表現に, 私は時にロマンチックな感情を抱くことがあります. ある種の美しさを, もしくは崇高さを感じます.
    自分がそうであるとまでは言いませんが共感できるところが多くあります.

    しかし, と思うのです. 私は上で, この社会の浅薄さについて短く触れました.
    傲慢な言い方を許してもらえば, 多くの事柄に関して, 全体への貢献, 役に立つかどうか, ビジネスになるかどうか, の世界線でばかり語られる社会の中においては「地を這い擦ってでも生きる」と言った場合, それは人を出し抜いたり引き摺り落とし嫉み憎しみ殺すといった様相でしか語られ得ないような気がするのです. そこには人間が居るにも拘らず人間が欠落しているように感じてしまいます.

    これが「現実」のすべてと言うにはあまりにも欠落が大きいようにも感じるのです.
    良い表現が思い付きませんが, そのような世界と共に (別に?) ある意味で形而上学的というか, 超越論的というか, そういった世界が並立していて欲しいと感じます. 私とは何か? 私はなぜ生きるのか? 存在とは何なのか? などの問い掛けはそのような世界内において生じてくるものだと思うのです.
    そのような世界観は, 特にこの国では「現実逃避」「空理空論」「役に立たない」などと言われて排斥されてしまうように感じます. これは非常に大きな欠落でしょう.
    なぜこのような世界観が軽んじられてしまうのでしょうか.
    自分への懐疑・存在への問いがあって世界というものが見えてくることもある筈です.

    最初に挙げた Takeo さんの「心の病とは何か?」「治癒とは何か?」といった問い掛けから, 私はそれこそ「地を這う」ような苦しみを伴ったある感覚を受け取ります. そこに Takeo さんが長い間に渡って問い掛け闘ってきたであろう, 自らの生への極めて否定的な意思を見ます. 苦しみと共にあることによる気高さのようなものを感じます.

    でき得るならば私はのたうちながらでも Takeo さんに生の光を見て欲しいと思います. しかし, Takeo さんは吸い込まれるように暗い洞窟へと向かっているように見えて不安を感じざるを得ません.

    今現在, Takeo さんにとってすべては閉じていくしか無いのでしょうか? 光へと向かう道はすべて閉ざされているのでしょうか?

    踏み込み過ぎてしまったかも知れません. 申し訳ありません.

    ただ, 私自身が鬱と無気力が苦しく何とか一日づつを乗り切っているという状態が続いている中で, この文章を書くことで幾分か救われた部分があることは確かです.

    Takeo さんの心の有り様も聞いてみたいと思います.

    まとまらない文章を読んでいただきありがとうございました.
    Takeo さんが穏やかな日々を過ごせますよう祈っております.

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    1. こんばんは、底彦さん。

      今回のコメントは底彦さんの状態・心境を反映しているのか、核心に迫る問いかけであり、その迫力にたじろぎます。

      今のわたしに何ほどのことが言えるかわかりませんが、いただいたメッセージを読んで感じたことを断片的に書いてみます。



      >精神科に通い始めた頃には, Takeo さんにも少なからずそこに通うことで生きづらさが改善していくだろうという思いがあったのではないかと推測します.

      わたしは30歳の時に精神科に通い始めました。その時にははっきりした理由がありました。当時勤めていた会社では、同僚とは嘗てなくうまく行っていたのです。そのような体験は初めてでした。ところが、最初にわたしを目に掛けて採用した上司(と言ってもほぼ同世代でしたが)と次第に反りが合わなくなり、馘になりました。
      (「会社」とか「クビになる」なんてなんて縁遠い言葉でしょう・・・)
      これまで経験したことのない、職場での人間関係の良好さが、ある日突然断絶されたことで、わたしは鬱状態になりました。けれどもそれは底彦さんの鬱や、そこに至る経過と比べることはできません。その状態は、ほぼ1年ほどの通院で回復したはずです。
      では何故わたしは、今日に至るまで、精神科という場所にしがみついているのか?
      その記憶が定かではないのです。

      当時、約20年以上前には、今のような「生きづらさ」などという言葉もありませんでしたし、そのような「自覚」もなかったような気がします。ほんとうにわたしはこれまで何を求めて精神科通いを続けてきたのでしょうか。その辺りの記憶(?)がスッポリと抜け落ちている。このあたりにもなにか鍵がありそうです。

      >「自己をとりまく環境と融和し得ず、友好的関係を結べない場合、心が癒えるということはあり得ないはずだ」と言い切っています.

      これは現時点ではわたしの揺るぎない確信となっています。
      「関係としての自己」── 木村敏の言葉を俟つまでもなく、「自己」とは関係性の中にこそ現れ、存在するものです。自己にとって劣悪な環境の中にいながら、健康であるということがどうして可能であり得るでしょう?

      しかしそのように明確に意識したのは、やはり、親友という防波堤を失い、剥き出しの自分のままで、外界と対峙するようになってからです。

      「狂者」とは、言い方を換えれば、「部外者」と同義です。「わたしは「狂者」である」ということは、わたしはこの社会の員数外であるという意味でもあります。
      「狂者」であるという自同律が、わたしをわたしたらしめているのであって、社会の中にあってはわたしはまさしく「無」に等しい存在になります。

      >私と大きく異なるのは, Takeo さんはその苦しみから逃れることに然程積極的ではないように見えることです. 寧ろその苦しみ自体が自分を形成する一部であり替え難い自我でもあり, それ故にその実存の深淵に歩みを進めるのが自分であると認識しているのではないでしょうか.

      これは非常に本質的な問いかけであって、容易に返答することが難しいのですが、
      例えば創作者というのは、その源泉が苦悩であり、「傷」である以上、苦しみと共に生きる以外に「生きる意味」を見つけることは困難なのではないでしょうか?

      わたしが辺見庸に愛憎半ばする感情を持っていることはご存知でしょう。けれども、人間の半分が現実(社会)に順応するものであり、また、もう半分が完全に黙する者たちだけであったなら、そもそも、芸術も文学も哲学も生まれません。これも既にご承知の通り、わたしは現実ー「いま・そこにある状態」を追認する思想を哲学とは呼びません。本を読むこともまた然りです。
      そこに「生きることの困難」と「生き易さ」とのジレンマが生じます。

      底彦さんは病気で苦しんでいる。日々その苦しみと闘っている。それは労働者の流す汗と等価ではないでしょうか?病に苦しみ身動きが取れないこと。これも立派に生きていることに違いないのではないでしょうか?
      「己が己の苦しみを苦しむ」これが「私が私を生きている」証しでなくて何でしょう。

      「人間」はいうまでもなく「社会の部品」ではありません。Life と Livingは切り離して考えるべきでしょう。ひとは生活するために働く。その場が多くの場合「社会」であるというだけです。「ライフ」ー「生」は当然「リヴィング」ー「生活」の上位概念です。それがこの社会では転倒しているのです。

      本来働くということは、生への奉仕ではあっても、生の酷使でも「生活への隷属」でもありません。
      働こうが働くまいが、役に立とうが立つまいが、生きている意味は存在しているのです。



      >「地を這い擦ってでも生きる人間」

      以前新聞で、山谷ツアーというものがあることを知り、是非一度参加してみたいと思っていました。そこには文字通り、「地をはいずって生きている人たち」がいます。
      そして「地を這いずるように」生きている人たちは、今の世の中にいくらでもいます。
      そのような存在を総称して「弱き者達」と言えると思います。
      弱くてはいけないでしょうか?敗者ではいけないでしょうか?わたしは「より地に近き者」ほど「より高き者たち」であるという思想を持っています。
      底彦さんご自身、「地を這う者」ではありませんか?

      底彦さんは、苦しくて寝込んでいる日々を無駄・無為だと感じておられるでしょうか?しかしその苦しみこそが生きていること「生自体」ではないでしょうか?

      わたしは「その苦しかった日々がいつかきっと役に立つ」といった考えを嫌います。
      苦しみ自体が完結したものであって、「役に立つ」「無駄ではない」という考えには同意できません。

      「人間の尊厳は那辺に在るか?」と問われれば「苦しみの裡に」と答えるでしょう。

      こちらこそまとまらない文章になってしまいました。ひょっとしてこれを読んで気分を害されるかもしれません。しかし表現の拙さはあっても、これがわたしの偽らざる気持ちです。







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    2. 追記

      書き洩らしました

      「わたしが辺見庸に愛憎半ばする感情を持っていることはご存知でしょう。」
      の後

      わたしは、彼の売らんかなの姿勢に懐疑的です。
      しかし同時に、彼や、エミール・シオランのように、「生きながら自分の属している世界・社会に悪態を吐く人間」はやはり必要なのです。辺見庸の編集者とも話しましたが、「アマゾンを徹底的に批判する本をアマゾンで売る」という逆説があるのです。その点に於いて、わたしと編集者は意見を異にします。
      とはいえ、完全に否定しきれない。

      「彼女は死にたいんじゃない、絶望しているんだ」と言える医師が日本にどれだけいるでしょう?

      わたしは若い頃から「希望」という言葉よりも「絶望」という言葉が好きでした。
      「好き」というのもへんですが、少なくとも、わたしは「希望」という言葉に馴染めません。

      お話したいことはいろいろある気がしますが、うまく文章にまとめきれません。

      最近は底彦さんの過去のブログを読んでいます。

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