2020年2月6日

「恋愛について」ー 障害者の恋愛


冷たい北風の吹き付ける寒い一日。今日のデイケアのテーマはホットな(?)「恋愛について」だった。昨年一月、正式な参加者(=デイケア・メンバー)として初参加したのも、同じく「恋愛について」であった。恋愛の経験すらないのに、このテーマになるとほほとんど独壇場になってしまう。

先ず最初にいつものように、自己紹介(名前)。それに添えられる今日のひとことは、「恋愛対象になり得る人(同性・異性を問わず)で魅力を感じるのはどんなところか?」
わたしは「良くも悪くも、他と違った独自のものを持っている人」と答えた。後から考えると、「その独自性に共通点があれば」と補足すればよかったと思っている。

このプログラムでは、毎回「こころ元気プラス」という雑誌からテーマが採られ、それに関連した記事を回し読みして、その後それぞれが感じたところを述べるという形で進められる。

細かい部分は省略するが、わたしが意見(異見)を述べたのは、資料にあったある精神科クリニックの副院長である女性の書いた「当事者の「恋愛・結婚」~おつきあいする前に知っておきたいこと~」の幾つかの発言に対してであった。

この副院長(以下Kさん)は、

「障害があろうとなかろうと人間として恋愛や結婚は自然なことで・・・云々」と冒頭で述べている。
先ず、「恋愛」と「結婚」を同列に扱っていることに強い違和感を感じるとわたしは発言した。これには既婚者の賛同者が多かった。
「恋愛」という、生物としての本能的な情動・営みと、「結婚」という「制度」「(社会の)仕組み」を同じ次元のテーマとして俎上に乗せることはできない。そもそもわたしは「結婚」を「自然なこと」とは考えていない。

一方で、Kさんは、デイケアや作業所の支援者に会ってよく聞く「恋愛などは、トラブルのもとになりやすいので、外部での付き合いは一切禁止している」ということに対して、「そんな決まりを作ることはナンセンス」と言い切っている。
これには全面的に賛成する。
Kさんは続けて、「恋愛や結婚は、当事者であれ健常者であれたいへんなんです。今まで違う環境で育った人間同士が一緒に暮らすわけですから。それにいろいろトラブルやストレスが起こることは順調なできごとなのであって、なんにもないことの方が変なのだと思っています。」と。

いずれにしても、「当事者同士の外部での接触は禁止」というこの国の偏見と差別に基づいた規制・規則の多い福祉施設が多数を占める中、「当事者同士の恋愛を禁止するなんてナンセンス」というKさんのスタンスは、「あたりまえ」が通用しないこの国の精神医療・保健・福祉に於いて、敢えてエールを送りたくなる。



さて、今回わたしがKさんの発言の中で特にこだわったのは、

「当事者であることの前に、ひとりの男と女としての自分を確立しなければならない」という箇所であった。

「精神障害者である前に、ひとりの人間として」── そのような言い方が果たして可能だろうか?
参加者の中にも、「病気があろうとなかろうと、ひとりの人間として・・・」という言葉はあたりまえに共有されているように見えた。もちろんわたしも特に異論があるわけではない。

けれども、自分自身を顧みて、「精神障害者としてのTakeoである前に先ず一人の人間、ひとりの男としてのTakeoとして・・・」といわれても、正直戸惑ってしまう。

そもそも障害者であるTakeoと、それ以前のひとりの人間としてのTakeoとは分離可能なものなのだろうか?「精神障害者以外のTakeo」というものがどこかに存在しているのだろうか?

これは即ち「自己とは何か?」という問題と直結している。


分裂病の治療に携わっている精神科医なら誰でも、分裂病者の自殺への親近性を痛感しているに違いない。分裂病者は、たとえば鬱病者が(キルケゴールの表現を借りれば)「絶望して自己自身であろうと欲しない」ために自殺を選ぶのとは対照的に、「絶望して自己自身であろうと欲する」ために自殺に走る。分裂病とは自己自身であろうとする、つまり自己を一人称的に個別化しようとする絶望的な努力の病的形態に他ならない。だから、分裂病者であることと、死を求めるということは、ほとんど同語反復と言ってよい。
ー木村敏『関係としての自己』第Ⅴ章「個別性のジレンマ」より(2005年)(太字、下線Takeo)

つまり、ここでは、「私」即ち「分裂病者」であって、「分裂病であるなし関係なしにひとりの人間として」という言説は成立しない。 

わたしはここで木村敏のいう

分裂病とは自己自身であろうとする、つまり自己を一人称的に個別化しようとする絶望的な努力の病的形態に他ならない。

という断定を重視する。

わたしは病的気質、乃至精神障害と言われるものを備えた存在でしかありえないのではないだろうか。それを超えて、「病気のあるなしに関わらずひとりの人間として」という言葉は、あくまで抽象化された観念でしかない。

木村氏の言葉を借りるなら

「精神障害者であることと、「私」であるということとは、ほとんど同語反復と言ってよい。」

わたしは「恋愛」というものに憧れる。けれども、抽象的で匿名的な「ひとりの男」としてではなく、具体的な症状を備えた一回限りの限定された存在として、恋愛は非常に困難であると感じている。

また、次回「恋愛について」のプログラムがあれば、是非、恋愛とは不可分の「性」「SEX」=「スキンシップ」「抱擁」「触れ合うこと」「温もり」等の精神に及ぼす作用などについても話題にしたい。







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