ある人のブログをランダムに読んでいて、改めてわたしは、「スノッブとは、長距離列車の向かいの席にとびっきりの美女が座っていても、彼女が読んでいる本が気に入らないからといって声を掛けようとしない者のことである」というジョークに当てはまると感じた。スノッブとは「知的俗物」のことだが、わたしは「知的」ではないし、「俗物」というのがどのような人物であるのかもはっきりしない。ただ、その人に限らず、気に入ったブログを少し読み進めると、自分との「違い」ばかりが目についてくる。これを裏返せば、人がわたしのブログを読み、またコメントでやり取りし、「違い」に気付いて離れてゆくということも自然なことだと思えるのだ。
一方で、デイケアで体験した中で強く感じたのは、あるテーマについてのディスカッションで意見が真っ向から対立しても、帰り際、彼/彼女に笑顔で、「おつかれさまでした」「お先に失礼します」と言われたり、次に会ったときに「こんにちは」と、やはり笑顔であたりまえに挨拶されると、「論の相違」など二の次三の次に感じられる。
そのような体験を踏まえて考えると、どのように濃密なやり取りをしていようと、(少なくともわたしには)彼/彼女、そしてわたし自身の実質=身体性の伴わないインターネット上の交流というものがいかに希薄であるかということを改めて思う。
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