2020年3月1日

いま思ふこと


このところインターネットでは底彦さんのブログの過去の投稿を読むことと、You Tubeで音楽を聴くことくらいしかしていない。アート系のブログはTumblrも含め、まるで気が向かない。ドロローサやOrphanのFBもブログも暫く訪れていない。

底彦さんの投稿に屡々出てくる「外出恐怖」について。底彦さんは、「働きもしないで昼間からブラブラしていることへの罪悪感」が外出恐怖の背景にあるのではないかと分析している。わたしの外出困難はもっと単純で即物的なものだ。外の世界の色・音・光・ニオイへの嫌悪感。更に言えば、それら「外界のノイズ」の元になっているこの国特有の文化への嫌悪に他ならない。わたしをそのようにあらしめている「別の理由」など無いのだ。
「まずい」「くさい」「みにくい」という感覚・気持ちに理由など無い。



昨夕、主治医のクリニックに行くために電車に乗った。僅か二駅。ほとんどガラガラに空いた車内でも、あちらでひとり、そちらでひとり、スマホに見入っている莫迦を見、車内での気取った英語のアナウンスを聞くにつけ、つくづくもうわたしの生きる時代は終わったのだと実感させられる。

主治医はわたしの希望をすんなりと聞き入れてくれた。いつものように。
「先方がカウンセリングを認めてくれるならそちらに行けばいい。」更にわたしの懸念する、「これまでの経験から新たな医師やカウンセラーと良好な関係を築くことは難しいだろうと思う、その時には出戻りは可能か?」という点についても、快諾してくれた。

わたしの「生きることの困難さ」については、「自分なりにいくつかの仮説を持っているが、どれもこれがその本質であるとは言い切ることは難しい。「広汎性発達障害」というのも考えられる大きな可能性だが、それであると決めつけることはできない。仮説のひとつに過ぎない。」

またわたしが何故、25年間に亘り「精神科」に通い続けてきたのか?ということについては、おそらくは今このブログでやっているように、自分が何者かを知りたいという強い欲求のためではないか、と。

先方のドクターがわたしの希望を受け容れてくれるかはまだ不明だが、仮に何らかの理由で断られたとしても特に落ち込むことはないだろう。逆にいえば通院が認められ、カウンセリングを受けることになっても、特に喜ばしいことではないということと対称を成している。腕のいいカウンセラーを期待できないということではない。そもそもわたしが今の時代に生き延びることに何の意味も見出していないからだ。

「喪失後の世界」に尚生きること。それはもはや惰性以外の何ものでもない。
そしておそらくは何者も、「良くなること」── 昨今流行りの言葉で言えば、「生きづらさ」から快癒する肯定的な意味をわたしに説くことはできない。

デイケアに通うためにはどこかしらの精神科(医)とのつながりが必要なので、精神科に通う意味をすでに失っているとはいえ、今現在の主治医か、受け入れられれば新たな主治医との関係の上にデイケアに通うことになる。



一方で、最近になって弟がこちらに泊まる日が次第に増えてきた。
無論ここは弟の家でもあるので何の不思議もないし、弟にはその権利があるのだが、ここに戻ってくるようなことがあれば、やはりわたしも進退を考えなければならないだろう。

弟もわたしも、母なしでは何もできない以上、やはりわたしの頭からは「2マイナス1」という考えが消えることはない。
ひとつの家、ひとりの母親にふたりの障害者・・・この事実が既に20年以上前からわたしの自己否認のひとつの大きな理由になっている。(もうひとつは「愛されざる者」であるという事実)

わたしが消えることが、わたしにできる唯一の親孝行であるという考えが、所謂「認知の歪み」「誤った思考」「イラショナル・ソート」(=非合理的な考え)であるとは露思ったことはない。だたわたしに意気地がないばかりに実行に移せないだけだ。

また仮にそれが明らかに「非・合理的な考え」であったとしても、そしてわたしもそれを認めるとしても、「非・合理的」だからなんだというのだ。

わたしが無能な、無力な存在であるということが、とりもなおさずわたし自身にとっても最大の不幸でもあるのだ・・・


「障害者は不幸しか生まない」── この命題を否定し得る論理をわたしは持たない・・・


[関連投稿]  生まれたわけ























10 件のコメント:

  1. こんにちは, Takeo さん.

    私のブログを読んでくださっているとのこと, 素直に嬉しいです.
    私も Takeo さんの過去のブログ "a man with a past" を読んでいます. 最近の文章にこのブログへのリンクがあったので, それを切っ掛けに読み始めたのです. 2007 年からブログを書いていらしたのですね.

    先の「治癒ということ」という文章に対する私の投稿に対して, Takeo さんは

    > 当時、約20年以上前には、今のような「生きづらさ」などという言葉もありませんでしたし、そのような「自覚」もなかったような気がします。ほんとうにわたしはこれまで何を求めて精神科通いを続けてきたのでしょうか。その辺りの記憶(?)がスッポリと抜け落ちている。このあたりにもなにか鍵がありそうです。

    と書いています.
    確かに 20 年程前には「生きづらさ」という言葉は聞かなかったですね.
    一方, 5 年程前に私が図書館で「精神医療」や「貧困」に関する書籍をいくつか借りて読んでいた頃にはすでに「生きづらさ」という概念が一つのテーマとして本の中にしばしば登場していました.
    明らかに人びとを取り巻く閉塞感が強まってきているのだと思います. 月並な言い方になってしまいますが, 社会の病と言ってもいいのではないかと思います.

    また「「天、予を喪せり」 絶望ということ」の中で Takeo さんは

    > わたしの苦しみはわたしという実存と不可分の苦しみだ。

    と書いています. その Takeo さんの苦しみを形作る一つの大きな要素には, 外の世界の醜さに対する嫌悪感があると私は理解しています.

    私も現在の東京という街への哀しみがあり, Takeo さんの苦しみのごく一端はわかるような気がします.
    どうして東京にはこれ程まで醜い建築物が立ち並び, 商業施設・公共施設の垂れ流す絶え間の無い音で騒々しくなってしまったのか.
    本当に街とはこういうものでいいと思っているのだろうか.

    街という空間はその風景や音や匂いや生活などの在り方で人びとを包み込むものです. 決して大袈裟では無く, 其処に生きることによって人びとは自らの存り方について考え, 生きることについて思いを巡らし, そこから様々な思索や表現が生まれてくるのだと思っています.
    東京という街に思想も表現も無いとは言いません. しかしあくまで私の感じる限りでは, それらは東京に生きる人びとの悲鳴に思えてしまいます.

    その巨大な悲鳴の中に私の小さな悲鳴も含まれています. その苦しみは鬱病や過去の記憶により引き起こされるものです. 自分が何者かを問い掛ける遥か以前に, 自己否定と自己肯定感の低さ, 過去の鮮明な記憶の中に現れて私を罵倒し否定するかつての知人の姿に心が乱されるのです. この恐怖・不安・緊張などからの解放を私は求めています.

    フッサールの言葉に, 「心理学的な意味での自己の内在は, 自己の意思によって明示的に構成される自己所有の内在とは区別されなければならない」というものがあります. この言葉は私の心に響いたもので, 私の「心理的な意味での内在」は記憶の中に蠢く他者の恐怖によって, 私が求める「自己所有の内在」をいつまでも妨げ到達し得なくさせているのでは, と考えていたものです.

    一方, Takeo さんは自ら外の世界を閉ざし引き籠もることによって, この世界の時間と空間の中に他の多くの人びとと共に居るということを拒絶したという印象を受けます.
    そのことによって何が起こるのか. ちょっと考えると, 外界から離脱することによって Takeo さん自身の存在の意味が希薄になってしまうようにも思えるのですが, そうではないと思います.
    寧ろ世界内存在としての実存への問い掛けは, Takeo さんの外界への拒絶により出口を見失って, Takeo さんを置かれている現実の中において, 一層深刻で懊悩せざるを得ない状態に追い込んでいるのではないかと思っています.

    率直にお聞きしたいのですが, Takeo さんの苦しみにはそういった側面が無視できない程にあるのではないですか.
    このような実存の苦しみと対決する, もしくは共生するという道筋はあるのでしょうか.

    > またわたしが何故、25年間に亘り「精神科」に通い続けてきたのか?ということについては、おそらくは今このブログでやっているように、自分が何者かを知りたいという強い欲求のためではないか、と。

    という言葉はそのような Takeo さんを正しく言い表わしていると思います.

    そうだとすれば私はそのような Takeo さんの在り方にシンパシーを抱きます.

    何だかまたまとまりの無い文章になってしまいました.
    間も無く訪れる春の暖かさが, Takeo さんの心にも平穏をもたらすことを祈っています.

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    1. こんばんは、底彦さん。

      底彦さんの過去の投稿を読んで、また自分の昔の文章について、話したいことはいろいろとあるのですが、どれも断片的で、あちらこちらと話が飛びそうで、これは雑談向きだなと思い、今回は割愛します。

      とはいえ、昨日ちょっと書いた部分だけ、ここに載せます。中途半端に終わっていますが・・・

      「本当に、底彦さんのブログばかり見ています。
      'a man with a past'は、わたしのタンブラーのタイトルでもあります。
      楽天ブログの方は、2007年の12月からほぼ10年ですが、投稿総数は、このブログを下回ります。ひとつも投稿のない年が数年あるし、投稿数3とか6といった年も・・・実際2015年まで、ブログの存在自体をほとんど忘れていたくらいです。

      ではその間なにをしていたかというと、a man with a past = Poboh.Tumblr.comにかかりっきりでした。タンブラーは2011年の春、3月に始めました。驚くべきは、これまでに既に2万点以上の絵・写真を投稿しているということです。



      底彦さんのブログで興味深いのは、2014年頃には「~なんです。」と読者に語り掛けるような文体でしたが、次第にモノローグになっていきます。そして「お笑い」が好きというのもわかるといったユーモラスな表現も散見されます。

      確かにわたしがもっとも書いていた2008年の文体もそんな感じだったでしょう。
      底彦さんもわたしも、絶え間なく続くダメージで、冗談を言う余裕もなくなってしまったのでしょうか。と同時に底彦さんの生命力の強靭さに驚かざるを得ません。
      あんなに苦しかった翌日に「映画に行く」などという投稿が屡々見られます。
      「弱すぎる」と底彦さんは言いますが、わたしにはとてもそうは思えないのです。」



      今日の投稿についてもそうですが、この国には、宗教もなければ哲学もない。ということは、人間という存在の「精神」或いは「こころ」の部分を形作るものが無いということです。

      「役に立つ」という価値観。
      芭蕉は「わが風雅は夏炉冬扇の如し。衆にさかいて用いるところなし」と述べています。人は芭蕉の言葉だと言えば、ありがたがるし、上っ面納得もするでしょうが、「風雅」というものが「非(乃至反・実用的なもの」であるという、その奥にある深い思想には至りません。
      日本の思想史とは、このような思想、「わびしさ」「さびしさ」「さびれ」「もののあわれ」などの、深く情緒に根差した思想の殲滅史または絶滅の歴史に他ならないのではないでしょうか?世界中で日本という国ほど、「情緒」とか「味わい」といったものと無縁な国が他にあるでしょうか?

      「治るとはどういうことか?」ということは、「現在のこの国で、人は本来の人として生きることが可能なのか?」という問いかけでもあります。

      どのような生物であれ、それらが生きる環境と切り離して考えることはできません。
      何故人間だけは例外と言えるのでしょう。
      わたしが繰り返し「動物園の動物たちは健康であるうるか?」と問うているのもそのことです。わたしはその問いに「否」と言い続けています。
      それは人とその器である町(街)とのアナロジーでもあります。

      >東京という街に思想も表現も無いとは言いません. しかしあくまで私の感じる限りでは, それらは東京に生きる人びとの悲鳴に思えてしまいます.

      東京に生まれ育った者として、現在の東京で、底彦さんのいうような、「声なき悲鳴」を聴くことができれば、それは逆に救いでもあります。
      けれども現実には、誰もが「生きづらさ」を感じているわけではなく、そういう人たちは、「心を病んだ人たち」── 流行の言葉で言えば「メンヘラ」という囲いの中の人たちと見做されてはいないでしょうか。

      そしてわたしが不思議なのは、例えばデイケアなどに行って「心を病んだ人たち」の様子をみていると、やはり、誰もが(?)「良くなりたい」と思っている。そして最終的な目標は「社会復帰」。何故多くの人たちは、「治癒」「回復」「復帰」という在り方になんの疑問も持たないのでしょうか?

      底彦さんの言われる「治癒」が、自同律の回復、即ち、わたしが本来のわたしを取り戻すことにあることは明らかです。「わたしがわたしであること」を目指しているのだと思います。「わたしがわたしである」ことを阻害している要素を排除する。それが「自己の意思によって明示的に構成される自己所有の内在」であって、外的要因によって、傷つき、破壊されてしまった「心理学的な意味での自己の内在」を取り除くことは正に言葉の本来の意味での「治癒」と言えるでしょう。けれども、そのような形で目指している「治癒」の形と、「社会復帰」とは果たして両立し得るでしょうか?



      >寧ろ世界内存在としての実存への問い掛けは, Takeo さんの外界への拒絶により出口を見失って, Takeo さんを置かれている現実の中において, 一層深刻で懊悩せざるを得ない状態に追い込んでいるのではないかと思っています.

      その通りだと思います。けれども、「出口」はいったい何処に、どのような形であるのか?それがわかりません。

      >このような実存の苦しみと対決する, もしくは共生するという道筋はあるのでしょうか.

      いや、そのような無理は早晩破綻します。絶望の中の光とははたしてなんでしょうか?

      メッセージをありがとうございました。底彦さんも心穏やかな日を一日も多く持てますように。

      友情を込めて。








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    2. 追記

      「心を病むとはどういうことか?」とわたしは問いました。では「社会が病む」ということはないのでしょうか?「社会が病む」とはどのようなことでしょう?

      このテーマについては、社会学や精神病理学、哲学というよりも、寧ろ、SFの世界に鍵が隠されているような気がします。「社会」とはそれ自体が自己増殖する「生体」なのか?人間の手を離れても「それ」は存在し得るのか?
      エト・セトラ・・・


      削除
  2. こんにちは, Takeo さん.

    私のブログについては, 最初の頃から鬱で相当苦しかった筈なのですが, まだ「〜です」のような文体で書くことが可能でした.
    確か入院を期にしてだったと思いますが, 自分のことで精一杯になってその余裕は無くなりました. それは現在まで続いています.
    苦しんで寝込んだ翌日に映画やお笑いのライブに行くということもあった気がします.
    Takeo さんは弱くないと言ってくださいましたが, 振り返ってみると相当無理をしていたのです.
    社会からの孤立を恐れていたのですね.

    Takeo さんの "a man with a past" の 2007 年 12 月 19 日の文章「Self Portrait with Death ・・・」に

    > =ALLがあり得ない以上、わたしの人間関係は
    > Absolutly Nothing ・・・でしかないのです。
    >
    > >相手を泳がせておくというぐらいの余裕を持たないと確かに「生き辛く」なると思われます。
    >
    > しかしそれは非常に困難なことです。
    > 例えば知り合った人から今日はメールが来なかったとします。
    > そうすると「ああ、嫌われたんだ」と判断します。
    > そして、先手を打って「ご迷惑をおかけしました、短い間でしたがありがとうございました・・・」と言う内容のメールを送ります。

    という記述を見つけました. Absolutely Nothing ではないのですが, 人間関係に苦しんだ私の中にもこのような意識はありました.
    人との距離の取り方がわからない. 人に相談ができない. どうやれば気遣いができるのかわからない.
    だから一方的に自分で決めて距離を置いてしまう, といった具合です.

    日本人は, と言うより東洋人という範疇で語られることもあるようですが, 老荘思想や禅にも通じるのでしょうか.
    沈黙すること, 静かに考えること, 自然からの声を聞くこと, などに重きを起き独自の精神世界を作り上げていく伝統は日本にもあると思います.
    今はどうかわかりません. 私は静かに考えるという行為を大変愛していますが, 少なくとも私が働いていた時期には表面的には「考えている暇があったら行動しろ」「理屈はいいから結果を出せ」のように言われてましたね. このような表面上のことに限らず, 「情緒」や「もののあはれ」のような美しい感性・思想は「役に立たない」という価値観により暴力的に破壊されてきていることは私も感じます.

    日本は治安のいい国です. 凶悪犯罪も昭和や平成初期に比べれば大幅に少なくなっているし, 自殺者も減ってきているという統計データがあります.

    しかし, 日々生きていく中で私は不安と圧迫感に押し潰されそうに感じることがあります. Takeo さんはどうでしょうか.
    何がこれほど追い詰められるような閉塞感を生じさせているのかを考えてみますが, 私にはまだわかりません.
    漠然とですが, 社会の中に全体主義的な雰囲気が醸造されてきているのではと思います. 具体的な根拠は思い付かないのですが.

    このような環境の中で, たとえば私の鬱の苦しみが解消されて「寛解」したと診断されたとして, その場所は私が穏やかに過ごせる世界ではないのです. 「社会の役に立て」という価値観の中で無理に適応しようとすれば, いずれ再び病を発症してしまうでしょう.
    だからこれは, Takeo さんも書いているように「治癒」ではないのです.

    以前も書きましたが, 昨年の暮れから私の治癒に関する考えは変化してきています. 私自身の病はある意味で誰しもが持っている様々な色彩の中の一つの色なのではないだろうか, という風にです. 過去の苦しい記憶からは解放されたいですが, そのような心の傷を受けた私の奥底の有り様は変わらない・変えることはできないと思うのです.

    私は何処に心の居場所を見出だせるのだろうか, というのは難しい問題です.

    最後に, 「いま思ふこと」の中で

    > 「障害者は不幸しか生まない」── この命題を否定し得る論理をわたしは持たない・・・

    と書いておられます. 私はこの命題を否定することができない現状に, 社会の病の発症が現れていると思います.

    また考えたら書きます.

    Takeo さんも良い週末をお過ごしください.

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    1. こんばんは、底彦さん。

      ここ数日苦しい日が続いておられるご様子。今日は比較的平穏なのでしょうか。

      >苦しんで寝込んだ翌日に映画やお笑いのライブに行くということもあった気がします.

      いえ、「過去形」ではないつもりです。つい先日も、体調が少し上向いたので、隣の駅の書店に行ったと書かれています。

      わたしがこのことにこだわるのは、わたしには底彦さんのように生きることは到底不可能だからです。そこにわたしは底彦さんの地力というか、生命力の強靭さを見るのです。
      底彦さんのブログを通して読んでいると、病気のちょっとした隙を見て、映画に行く、絵を観に行く、友人と会う、プールに行く、というシーンが屡々出てきます。
      「引きこもり」のわたしから見れば、それは誇張ではなく「驚くべき生命力」なのです・・・

      >社会からの孤立を恐れていたのですね.

      「社会からの孤立」ということは度々底彦さんの文章の中に出てきます。
      一方、そもそも高校卒業以来、「孤立していない」状況を持つことのなかったわたしにとって、悲しいかな「社会からの孤立」はわたしの「常態」なのです。

      もとよりわたしは社会の員数外であって、「遅れる」も「孤立する」も端からないのです。



      底彦さんの人との距離の取り方と、わたしの場合は、やはり違うと思います。
      これは勝手な推測ですが、底彦さんの場合、自分の言動が「相手に迷惑になるかもしれない」という意識が働くのではないでしょうか?

      わたしの場合はそのような気遣いはまるでありません。
      わたしの大好きな映画『ミナ』のキャッチコピーは「わたしだけをみつめて」でした。わたしのブログのあちらこちらに見られるかと思いますが、わたしも、そしてわたしの当時の無二の親友も、そういう傾向が強かった。だからHさんが言うように「相手を泳がせておく余裕・ゆとり」などわたしには到底できないことなのです。

      わたしから見ると、「ストーカー」というのは、わたしの対極にある存在乃至心性であると思います。わたしは、「切り」ます。「切られる前に」



      底彦さんの最初の頃の投稿で、新人研修でしたか、底彦さんが(?)先輩(?)にいわれる場面があります
      「そりゃ付き合いで飲むこともあるだろう。二日酔いになることもあるだろう。しかし二日酔いであろうが這ってでも会社に来るのが社会人ってもんだ。その日の仕事があるのだから」

      わたしは幸いにして「社会の外側」にいたのでこのようなことを言われたことはありませんが、二日酔いで、這ってでも会社に行って、まともな仕事ができると思っているのでしょうか? この発言にわたしはある種の「狂気」を感じました。



      よく「社会の閉塞感が強まって来ている」という言葉を聞きますが、わたしは「社会」に対する危惧というものをほとんど持っていないのです。わたしの関心は、「社会」とか「世界」といった大状況には向けられていません。

      >私は何処に心の居場所を見出だせるのだろうか,

      これこそがわたしの主たる関心事です。



      ここのところ、インターネットでやることといったら底彦さんのブログを読むことだけになっています。そして昨日、一番最初の投稿を読みました。

      生きている中で、例えば底彦さんにとっての絵や、数学、プログラミングなどのような「たのしみ」が皆無であること。その上で尚生きることの意味を見つけられずにいます。

      乱雑な文章になりました。

      底彦さんも、心穏やかな時間を過ごせますように。

      メッセージをありがとうございました。


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    2. 追伸

      > 「障害者は不幸しか生まない」── この命題を否定し得る論理をわたしは持たない・・・
      と書いておられます. 私はこの命題を否定することができない現状に, 社会の病の発症が現れていると思います.


      わたしは基本的に、もっともっと社会のせい、政治のせい、組織(学校・会社)のせいにすべき、しなければならないと考える人間ですが、

      このことに関しては、社会とは離れた、人間の、或いはわたしという存在の宿命のように感じています。

      トマス・ハーディの『日蔭者ジュード』で、若い夫婦の幼い子供たちが、家族が多くて住む場所が見つからず・・・Forgive our sin 「ぼくたちの(生まれてきた)罪を許して・・・」と書き残して、4人(?)全員が自ら命を絶った(幼い弟・妹は兄が殺しました)ことは「社会」とは(おそらくは)無縁でしょう・・・

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    3. そして同時に、神戸の精神病院の隔離病棟での看護師たちによる患者の虐待に接し、
      この国の底知れぬ愚劣さ、非人間性、醜悪さを見せつけられる思いです・・・

      削除
  3. こんにちは, Takeo さん.

    > >苦しんで寝込んだ翌日に映画やお笑いのライブに行くということもあった気がします.
    >
    > いえ、「過去形」ではないつもりです。つい先日も、体調が少し上向いたので、隣の駅の書店に行ったと書かれています。

    そう言えば体調が良くなかったにも拘らず, 隣の駅の書店まで電車に乗って出かけました. 二階堂奥歯さんの『八本脚の蝶』の文庫本を買った日ですね.
    確かにしばしば無理をして外出などしているようです.
    Takeo さんは「生命力の強靭さ」と書いてくださいますが, 正直なところ私はこのような無理をできるだけ減らしたいです.
    先日も雨の中, 無理をして散歩に出かけたら途中で鬱が苦しくなって大変でした. 冷たい雨が降っているのに, しかもそういう天候の日には体調を崩しやすいとわかっているにも拘らずおかしな義務感で散歩に出てしまったのです.

    > これは勝手な推測ですが、底彦さんの場合、自分の言動が「相手に迷惑になるかもしれない」という意識が働くのではないでしょうか?

    その通りです. 私のこの意識はかなり偏っていて, 「どんなことがあっても, 人に迷惑を掛けてはいけない」というものなのです.
    明らかにそんなことは不可能です.
    不謹慎かも知れませんが, 私は心の奥底では外の世界はどうでもいい, 自分が静かにいられればそれでいいという思いを持っています.
    厭世的とまでは言いませんが, かなり内に籠もった考えだと思います.
    ただ, それがずっと否定され続けてきたことによって歪んでしまったのでしょう.

    何とかしてこの意識から解放されたいです.

    -=-=-=-

    私にとって「社会」というのはある面で私を管理・支配している存在です.
    Takeo さんとは異なる意味で「何処に自分の心の居場所を見出だせるのか」というのはずっと私の問題であり続けています.

    > >私は何処に心の居場所を見出だせるのだろうか,
    >
    > これこそがわたしの主たる関心事です。

    生きるということは難しい. 生きることは辛い.
    本当にそう感じます.

    ここ数日鬱が苦しくて, 自分は駄目だ・自分はいるだけで他人の迷惑になる出来損ないだ・蔑まれ軽蔑され邪魔者扱いされて終わっていくのだ, という意識にずっと責め続けられています.

    思考力が低下しているためか, 何もかもが面倒で様々なことに対して諦めというか, もうどうでもいいという半ば自暴自棄な思いが強くなっています.
    何のために生きるのか, と自分に問い掛けることが苦痛をさらに増すことになるなら, どうすればいいのでしょうか.

    Takeo さんは若い頃からずっと「生きるとは何か」という問題に苦しみながらも思索を続けていますね.
    それは Takeo さんが少なからず生きることに困難さを感じていたからではないかとも想像します.

    「死ぬ勇気が無いから」とどこかの文章で書いておられたように記憶していますが (私の記憶違いだったらごめんなさい), Takeo さんをこの世界に繋ぎ留めているものはそれだけでしょうか.
    Takeo さんのブログの文章を読むと, その根底には絶えざる苦しみの中でも誠実に真摯に自らに対して「生きるとは何か」という問いを投げ掛ける姿勢を感じます. そのような強さ ── これは強さだと思います ── は何処から得られたのでしょうか.

    Takeo さんは「生きることの意味を見つけられずにいます」とも書いておられますが, この言葉に Takeo さんの純粋さと生に対する一貫した姿勢を感じるのです.

    > > 「障害者は不幸しか生まない」── この命題を否定し得る論理をわたしは持たない・・・
    > と書いておられます. 私はこの命題を否定することができない現状に, 社会の病の発症が現れていると思います.
    >
    > わたしは基本的に、もっともっと社会のせい、政治のせい、組織(学校・会社)のせいにすべき、しなければならないと考える人間ですが、
    >
    > このことに関しては、社会とは離れた、人間の、或いはわたしという存在の宿命のように感じています。

    私もあまり「社会」とか「世界」などのような主語の大きな話は好みません. 個が埋没してしまうような気がするからです.
    「障害者は不幸しか生まない」という命題が人間の存在の宿命だという言葉はわかるような気がします.

    ただ, 個々の人間の中にあるその宿命が, 集団発生したイナゴの大群のように凶暴に飛び回り攻撃をする様をどのように表現したらよいのでしょうか.
    私個人はあくまでも自らの内省においてこの宿命と向き合って考え続けることしかできないし, それが必要だと思っています. しかしそれが集団の狂気となっているように見える現在には, 個がどれ程の意味を持ち得るのでしょうか. あるいはどのように対峙できるのでしょうか.
    そしてその狂気の中でどのように生きることが可能なのでしょうか.

    神戸の施設での障害者虐待事件のことは, そのような狂気が現れているように感じます. この醜悪な暴力には, 人間の本質は獣なのだという恐怖があります.

    意味の通らない文章になってしまったかも知れませんがご容赦ください.

    Takeo さんが静かで穏やかな日々を送ることができますよう, 祈っております.

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    1. こんばんは、底彦さん。

      昨夜は投稿をしてから底彦さんのメッセージに気づきました。お返事が遅れてしまいました。今日はまだ底彦さんのブログを拝見していないのですが、気持ちの変化などありましたでしょうか。

      頂いたメッセージから、底彦さんの焼けるような苦しみが伝わってきます。意味が読み取りにくい部分もありますが、そんなことは全く気にせずに、苦しみを書きつけてください。

      筋道を追って論理的な思考ができないというのも、正に現在の底彦さんの現実なのですから、それを糊塗する必要はありません。



      『八本脚の蝶』が文庫化とは知りませんでしたし驚きました。確か単行本は2006年に出版されて、現在は絶版のはずです。文庫ということは「解説」がついているわけですが、誰がどのようなことを、この「ブログ」に対して書いているのか、興味のあるところです。また同時に底彦さんがそれほどまでに彼女に惹かれる理由というのも知りたいと思います。わたしは底彦さんほどの感情移入を『八本脚の蝶』にはしていないような気がします。あくまでも知的好奇心のレベルでしょうか。

      無理な外出。先日の雨の日の散歩は、ご自身で「少し無理をして散歩に出る」と書いてありました。それはこれまで散歩をして気分が晴れるという経験の積み重ねではないでしょうか?雨の日の外出は、体調が悪いからこそ出かけたのではないでしょうか?楽になろうと。あれは賭けみたいなものでしたね。

      「おかしな義務感」これはやはり、社会から取り残されたくないという気持ちが半分くらいあるのではあいかと思います。あと半分は「義務感」というよりも、純粋に、絵やお笑いを楽しみたいというシンプルな欲求だと思うのですが。

      >「どんなことがあっても, 人に迷惑を掛けてはいけない」
      しかし人間は万能ではないのだから誰にでも「限界」「できないこと」はあります。それらの欠けた部分を互いに補うのが社会であり、組織の本来の姿のはずではないでしょうか?底彦さん自身が言われるように、「誰にも迷惑を掛けてはいけない」ということは、「万能たれ」ということと同じではないでしょうか?

      >不謹慎かも知れませんが, 私は心の奥底では外の世界はどうでもいい, 自分が静かにいられればそれでいいという思いを持っています.

      いいんじゃないでしょうか。その気持ちを無理に封印することは逆に良くないと思います。もっともっと自分の苦しみを、自分の中の感情を率直に表現できればと思います。その一つの手段が、「絵画」なのでしょう。底彦さんの志向・嗜好を見ると、内部にたくさんの抑圧された感情が出口を求めてのたうっているように感じることがあります。少なくとも思考の世界では、空想の世界では「いいもわるい」もないのですから、己の内面の醜さ(とされている感情)を自らが蔑み、恥じる必要は全くないのです。そして、醜さを伴わない芸術ってそもそもなんでしょう?



      >自分は駄目だ・自分はいるだけで他人の迷惑になる出来損ないだ・蔑まれ軽蔑され邪魔者扱いされて終わっていくのだ, という意識にずっと責め続けられています.

      >自分は駄目だ・自分はいるだけで他人の迷惑になる出来損ないだ
      というところはわたしにもよくわかるのです。それは底彦さんも既にご承知でしょう。

      けれどもわたしはどうしても

      >蔑まれ軽蔑され邪魔者扱いされて終わっていくのだ,

      という感覚を共有できません。つまり底彦さんは、それが傷になって、後々まで、今に至るまで癒えない傷となるような軽蔑や疎外を体験してきたということですね。
      さぞ苦しいことだろうと思います。

      これはまったく見当違いであることを承知で書くのですが、
      例えばホームレスは、例えば生活保護を受給しながら酒を飲み、パチンコをしている者はどうでしょう?
      こういう言い方は非常にいやらしく、自分でも嫌いなのですが、わたしは彼らを存在論的に「蔑む者」よりも上位に置いています。

      「弱さとは美である」これもわたしの「信じるところ」でもあります。



      >何のために生きるのか, と自分に問い掛けることが苦痛をさらに増すことになるなら, どうすればいいのでしょうか.

      わたしはこの問いかけに何の答えも持っていません。
      何のために生きるのか?それ自体が生きることと同義になっています。そしてそのような人間はいつの時代にも少なからずいたはずです。彼/彼女が一冊の著作も遺さなかったとしても。それはそれで決して「無駄な人生」だとは思えないのです。そこにわたしの奉ずる「性格とは運命である」という思いがあります。



      わたしはカミュの『ペスト』を読んでいませんが、辺見庸の本の中で、それについて語られている箇所があります。カミュは「個」の可能性と限界についての考察を3人の主人公の会話を通じて模索し思索しているようです。
      長編は苦手なのですが、読んでみたいとおっもいます。

      書かれている内容は二の次でいいのです。苦しい時にただ苦しいと書いてください。
      そんなときに整然とした理路など求めてはいません。

      底彦さんも心の穏やかさを手にできますように。

      HUGを送ります。

      武雄


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  4. こんにちは, Takeo さん.

    温かい返信をありがとうございます.

    二階堂奥歯さんの『八本脚の蝶』の文庫版は今年になってから出たようです. 本文であるブログの日記以外にも友人や様々な人の文章が付録として掲載されています. また, 二階堂奥歯さんが仕事で書いた書評なども収録されています. これは多分, 元々の書籍にも収録されていたものなのでしょう.
    解説は種村弘さんという方が書かれています. ブログから読み取れる「消え去る感覚」について触れられていますが, ここはもう少し踏み込んで書いてほしかったと思います. 解説の最後にある「現実がどんなに傷ましいものであっても、遺されたこの本は美しい」という文章は, 実際に紙の本になった日記を読んでみて確かめたいですね.

    二階堂奥歯さんのブログから知的好奇心を刺激されるのは私も同じです. シモーヌ・ヴェイユの引用や可淡ドール等の人形の記述, ウィトゲンシュタイン, クワインなどの名前は心に引っ掛かります.
    けれども, 現在私が彼女の文章に惹かれているその中心は, 彼女の生が彼女自身の豊穣な想像力で構築された, 別の言葉で言えばどこか現実離れしたもののように感じる点だと思います. それ故に彼女は見るという行為によって自分を現実に繋ぎとめることにこだわったのではないでしょうか. 以前それを「感覚の論理学」と表現しましたが, 今でもそう思います. 私自身は読書家ではないし豊かな想像力を持つ者ではないと思いますが, この現実離れという点で苦しんできたせいか強く引き寄せられているのです.

    > 少なくとも思考の世界では、空想の世界では「いいもわるい」もないのですから、己の内面の醜さ(とされている感情)を自らが蔑み、恥じる必要は全くないのです。そして、醜さを伴わない芸術ってそもそもなんでしょう?

    Takeo さんのこの言葉には背中を押されたように感じます. この文章の前半を読んで気が付いたのですが, たとえば「どんなことがあっても, 人に迷惑を掛けてはいけない」という私自身の歪んだ意識が苦しい理由の一つに, これが私の思考や空想の世界までも侵入して管理・支配しようとしていることがあります. それは本来的には全く自由であるべきなのに, です.
    上に書いた「現実離れ」にも関係しますが, 内的世界を蔑み現実に即さないものを一段低く見る姿勢が尊重される傾向が世界に浸透しているような気がするのです. これは間違っていてほしいと思います. 私はこれを否定して, できることなら抗いたいですが残念なことに現在その気力がありません.

    内面の様々な感情や思考を ── 醜悪さから目を反らさずに ── 見つめ続けて現れてきたもの, そのような表現に私は惹かれます.
    Takeo さんのアートのブログに挙げられている数々の絵画や写真の中にはそのようなものが多く含まれていると思います.

    > 例えばホームレスは、例えば生活保護を受給しながら酒を飲み、パチンコをしている者はどうでしょう?
    > こういう言い方は非常にいやらしく、自分でも嫌いなのですが、わたしは彼らを存在論的に「蔑む者」よりも上位に置いています。

    難しいですね. 「難しい」というのは, 私は半ば彼らの側に居るから冷静に語れるだろうかということなのです.
    このような人びとは, もしかしたら自己責任の言葉の元に切り捨てられ, 敗者, 落伍者と見做されてしまうかも知れません. けれども, 彼らには間違い無く彼らの「存在と生」があります. 悲惨ではあるのかも知れませんが, それに目を向けるならば「蔑む」という態度は取れないのではないでしょうか.

    「蔑む者」が取る極端な態度としてそのような人びとに向かって, 彼らには生きる資格が無い・彼らには生きている価値が無いと断じることがあると思いますが, これには言い知れない無知・浅薄さを感じます. 此処に「生きるとは何か」「何のために生きるのか」という問いの入り込む余地はありません.

    「何のために生きるのか」という問いが現在の私にとって苦痛であるのは, この問いを突き詰めることによって自分が何処にも居なくなってしまう, 自分のあらゆる居場所が否定されてしまうような気がするからです. 体調が良くないせいかも知れませんが, 今の私には自己を肯定する力がありません. 自分自身で自己を否定し排除しようとしています. これは堪え難く苦しいことです.

    記憶が朧げですが, Takeo さんが以前引いた木村敏氏の言葉に「鬱病は自己から逃げようとして死に至り, 分裂病は自己になろうとして死に至る」というものがなかったでしょうか. 鬱病者である自分の今の状態をうまく言い表わしているように思います. 逃げ場所が無くなったとき, しかも自分で可能な逃げ場所を全て否定して台無しにしてしまったとき, 鬱病者の救われる場所は何処でしょうか.

    Takeo さんの文章にも, 時に強烈な自己への否定・拒絶が読み取れることがあります. それは私の自己否定とは異なっている印象を受けますが, その箇所にはいつも目が留まります. そこから私自身が何かを読み取りたいのでしょうね.

    カミュの『ペスト』は随分前に読みました. 読んでいて退屈さを感じた記憶があります. それ程延々と, いつになっても効果の表われない患者への治療を施す医師, それを無意味で間違っていると批判する新聞記者 (だったか, 記憶が曖昧です), 混乱する人びとの描写が続きます. 単調で重苦しくやり切れない表現です. 当時は背景の思想性などに思い至りませんでしたが, 「個」の可能性と限界を書いているというのならば, もう一度読みたい興味が湧きました.

    昨日, 今日は先日より少しは具合が良いようです. このままの体調が続いてくれるといいのですが.

    今日も寒くなるようです. Takeo さんも体調など崩されませんよう, 平穏な時を過ごされますよう祈っております.

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