「人間のつくりだす変化の九割方は失敗である」といったのは、英国の詩人・工芸家・社会活動家のウィリアム・モリス(1834-1896)だが、それは単なる経験主義の国の後ろ向きな意見を代表しているのではない。モノづくりの精神的な価値について訴えているのである。彼が本当にいいたかったのは、心がモノの変化についてゆくには相当の時間と労力が要るにもかかわらず、そのことなどまったく関係なくモノは機械的に増殖しつづける。しかも、不特定多数を相手に作られるモノが、目にあまる速さで変貌してゆくことへの無力感と、それと知らずに加担する社会のおぞましさのことである。彼が目指したデザインの美しさは、古くても新しくても、モノが日常生活の中で刻む心のリズムに合わせることの優しさであり、時とともに移ろうことへの慈しみにあったはずである。
(略)
都市の美しさは、決してその場限りの算術にもとづく容易なパッチワークで守りきれるものではないことを、モリスは「古建築保存協会」で訴えた。モリスによれば、仮に、老朽化しつつある建築に「修復」の手を入れたとすれば、その建築は全く別のものになるか、さもなければその時点で建物が一旦死んでしまうというのだ。「保存」に徹することで、それは朽ちながら生き続けるのである。
どうしてもつくり変えなければならない部分は、改築したところの素材と工法を正直に明示し、決して古めかしく見せようと欺いてはいけないと説く。
時間の星霜が残した外観やかたちは、その建築をわれわれのなかに生かし続けるなにかをもっている。見る人の心にそうした想像力をコンストラクトするのが建築というものであり、建築が社会を育てるとは、このことをいうのである。はじめから消費し捨て去ることを前提にした「建てモノ」とのかかわりのなかでは、モノのなかで熟する時間の美しさなど想像だにできない。
(略)
繰り返しになるが、本来デザイナーとは、近代産業社会が誕生した時点で、近い将来必ず、モノによってそれをつくった人間から、畏れと謙虚さが奪われるという事態を想定できるだけの想像力の持ち主であった。ラスキンやモリスがモダン・デザインのパイオニアといわれるのは、実際にモノを作ったり、その技術を指導することよりもむしろ、モノと人間のあるべき精神的なつながりを具体的な言葉で諭したことにたいしてなのである。
ー 横川善正『スコットランド 石と水の国』「第4章 絵のような国のデザイン」(2000年)より
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