2020年3月20日

ク ル シ イ …


今日は弟に気の毒なことをしてしまった。最近目立ってこちらに泊まる回数が増えている。無論いつでも好きな時に泊まれる権利・・・といえば大袈裟だが、ここは弟の家でもあるのだから。彼が3日に一度泊まることになっても文句を言う筋合いではない。実際本来はここに住んでいるはずが、わたしの我儘身勝手のせいで1日の3分の2をたったひとりで何年も過ごしているのだ。悪いのはわたしだ。何故弟がわたしの犠牲にならなければならないのか?

けれども、頭ではそう思いながら、気持ちがどうしてもついていかない。物理的に傍にいることが苦痛なのだ。まだ2人とも大田区で家族4人で暮らしていた頃、たぶんお互いに10代のころ、或る夜、弟と一緒にいるのが苦痛で、行く当てもないのに夜外に出て行ったことがあった。その頃池上に高校時代の友人がアパートを借りていた。放送部の他の3人の中では、どちらかといえば苦手(?)なタイプだったが、気さくな人間なので一晩泊めてもらおうとしたのだが、彼のアパートには他の友人2人と一度行ったきりで、1時間くらいうろうろしたが遂に見つからなかった。結局その日は上野のオールナイトのポルノ映画館で夜を明かした。
馬込に部屋を借りるようになってからも、弟がいるからと、正月三が日、帰らなかったことも一度だけではなかった。

弟が泊まる回数が増えれば、わたしはここから出て行かなければならない。それは誰のせいでもない。現実にここにとまる日が確実に増えている以上、そう遠くないうちに数万円をもって夜中にそっと出てゆくことになるかもしれない。弟が母と離れて生きることが出来ず、わたしがどうしても弟と同じ屋根の下に暮らすことができない以上、それ以外の途はない。
何故そうなるのか?それはわたしにもよくわからない。わたしがひとり暮らしができない理由のひとつに、突然のノックやチャイム、電話を異常に怖れるということがある。これはなにも「予告なし」の場合だけに限らない。宅急便や修理の人に、何日の何時から何時に伺います、と言われた時、その「何時から何時まで」の間、文字通り脂汗を流しながら、トイレにも行けず、呼吸は浅くなり、本を上下逆さまに持ったりと、静かなパニック状態に陥ることとなにか関連があるのかもしれない。しかしわからない。



4月3日の予定だった目の手術の正確な来院時間がなかなか決まらないので、それでは前日になって「行けない」ということにもなりかねないと伝えたところ、前日の2日なら「午後」で大丈夫だと言われた。そして手術の翌日(翌朝)執刀医が診察をするのであれば、その日は病院の近くに泊まらなければならないので、翌日の診察はいつもの地元の眼科でも構わないか?ということも訊いたが、執刀するドクターの診察は朝早いので無理だとしても、手術の翌日と翌々日は執刀医ではなくとも、少なくともこの病院の医師の診察を受けてもらいたいということだった。勿論午後で構わないが、と。

御茶ノ水の眼科はこちらの事情を考えてくれている。手術をした医師が術後の経過を見るのは当たり前だし、逆に地元の眼科医で構わないですよという方が無責任ともいえるのだ(いくらその眼科医がその病院のOGであったとしても)。けれども、そもそも今のわたしのような状態の人間が、電車で40~50分も乗ったところにある病院に行くということ自体、ハードルが高すぎたのだ。手術も午後、翌日とその次の日の診察、そして10日後くらいの予後の観察もすべて午後でいいといわれても、とにかく「電車に乗ること」が、とても難しい・・・困難なのだ。

片目が見えないストレスは日増しに膨らんできているが、手術当日から3日連続プラス10日前後の診察のために「通う」=「電車に乗る」ということは、少なくとも今の状態では無理に思われる。

数年前、もう片方の目の手術をした時には、やはり翌日の診察のために近くのビジネスホテルに一泊したのだった。当時は外出困難も今ほどひどくはなかった。電車で二駅の主治医のところにも、不規則乍ら通えていた。

5月21日の手術が4月2日になるというのは助かるが、電車に乗るという難関を、どうすることも出来そうにない。早いうちに結論を出さなければならないが、御茶ノ水での手術は、おそらく無理だろうと思う。



精神科も、デイケアも辞めようと思う。わたしは確かにアタマがおかしいが、精神科に通って、薬を飲んでどうこうなるものでもあるまい。デイケアの担当も、何しろ規模が大きいので、「主治医との連携」と、口ばかり言っている。仮に「口ばかり」ではなく、主治医や保健所の保健師と「連携」したところで何が変わるというのか?
更に、デイケアのディスカッションに参加して、いつものようにみなと違う意見を述べていったい何になる?


御茶ノ水に行った時にわかったことがふたつある。ひとつはもう電車には乗れない。乗りたくないということ。強烈な拒否感。そして空のひろがりのうつくしさ。「飛びたい」という強い憧れ・・・


いまはただただ生きていることが苦しい。そして自分が一体なんのために生きているのかを考えた時、どうしても死ぬことの容易でなさ以外の一切の理由が見つからない。そして思うことはただただ楽になりたいということだけなのだ。わたしがいなくなることは母や弟の負担を激減させることにもなる。そして何よりもわたしはこの苦しみから解放されたいと願っている。

冒頭に「弟に悪いことをした」と書いたのは、どうしても苦しくて、夜の6時過ぎまで起きることが出来なかったこと。弟がいるとどうしても機嫌が悪くなってしまうこと。
早くなんとかしなければ・・・




ー蛇足ー

アートブログ「Eye of a Painter」はあまりの人気のなさに気落ちして閉鎖することにしました。わたし自身はあのブログを気に入っています。ですから削除はしませんが公開を止めます。過去のポストはそのままにして、同じものをすこしづつ、Clock without Handsに移していこうと思っています。

しかし実際にはこの2つのブログのテイストは対照的で、Clock without Handsに訪れてくれる人が「エロ・グロ・ナンセンス」に抵抗を示すことは明らかです。

わたしはドロローサが、ブログとフェイスブックを2:8の割合で使い分けていることを残念に思います。それはSNSの画面の味気無さです。このブロガーは、ある程度自分で画面を好きなように作り上げることが出来ます。バックの色も、文字の色、フォントも。わたしは自分の好きな絵を自分の創り上げたフレームに収めたいのです。
その点ではタンブラーもSNSに近い。
あまりの人気(ひとけ)の無さ、と書きましたが、SNSなどで、薄汚い絵文字などを送られるのは真っ平御免蒙ります。汚い賑わいよりも、清浄な孤立を選びます。

では。










 

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