2020年3月17日

底彦さんへ


先の投稿で、わたしのことばが底彦さんにとって攻撃的だったかもしれないと気にしています。若い頃、更に若い外国の女性ミュージシャンのインタヴューを読んで、そこに書かれていた「率直に物を言うことは時に暴力的でもあるから・・・」という言葉が強く印象に残っています。

率直に物を言う、自分の気持ちに誠実である、しかしそれが結果として人を傷つける場合に「率直であること」「自分の心に忠実」ということが言い訳になるでしょうか?
わかりません。
おそらくそれを見極められることが、センスなのだと思います。

生きることも死ぬこともままならず苛立っています。
このような穢土にあって、片目が見えるようになることにいったいどんないいことがあるのか、まるでわかりません。

ブログに自分の気持ちを正直に綴ることは許されても、誰かを相手に、それが自分の考えだからと率直に物を言うことは時に・・・屡々暴力になり得るのだと肝に銘じておかなければならないと思いました。

真実よりも大切なのはひとを傷つけないこと・・・わたしにはとても難しいことですが・・・

最近わたしはどんどん自分がきらいになっています。











7 件のコメント:

  1. こんにちは, Takeo さん.

    私の文章に対する Takeo さんのコメントですが気にしていません. 寧ろいろいろ考えさせられるところもありました. お気遣いをありがとうございます.

    また, 久し振りに Junko さんのコメントが読めたのも嬉しかったです.
    「出来る限り商店、出店で買い物をするようにしている」との文章には共感しました. 私の住んでいる場所からは残念ながら少し歩くのですが, それでも商店街で買い物をするのは楽しいものです. イタリアも現在は大変な状況でしょうが早く穏やかな日々が戻ってくるといいですね.

    私は, 精神的で内的な世界を尊く思っています. 私の心が安らげる場所と言ってもいいと思います.
    Takeo さんは「内的世界を蔑み現実に即さないものを一段低く見る」という意識が実は私の内面にあるのではないか, と書きましたが, この点に関してはおそらく違うでしょう.

    もっともこれは私が思想的にそうだというのではなく, 気質として性格としてそうだという意味です. それが内向的な様子として表われ, 周囲からずっとそのことを否定され「現実と向き合え」と言われ続けてきた経験があります. その刷り込みが私の中にあるのを Takeo さんが嗅ぎ取ったのかも知れません.

    気質・性格として与えられたものは変えようがありません. このことに気付くまでに随分時間がかかりましたが, それで自らに内在する諸々の思索や想像を, 云われるところの「現実」の前に置くことを自らの価値観として持つことに躊躇が無くなりました.

    「現実と向き合え」という言葉は, 見方によっては十分に深く静かな豊穣を内的世界として持てなかった者たちが, 自らの後ろ盾となってくれるような尤もらしい正当性を獲得するために生み出したものかも知れませんね. だとすると「現実」とは彼らが正当化される世界に過ぎないということになるのではないでしょうか.

    命の次にお金が大切であり, その多寡によって支配する側が決まり, 弱肉強食が生存戦略として確立しているような世界です.

    私は自分が豊穣な内的世界を持つ者だとは思いませんが, 彼らの「現実」からは弾き出されました. 私はそこでは生きていくことができませんでした.

    しかし, 同時に私たちは自身の内在性をある普遍性を持った表象として世界の中に投じることによって思考や想像を相対化するという属性があるように思います. それは言葉であったり, あるいは文章や絵画・詩であったり, あるいはもっと他のものかも知れません.
    そのような行為は, 私たちにとっての「現実への希求」と呼べるのではないかとも思うのです.

    まとまらない文章になってしまったこと, ご容赦ください. また考えたら書きます.

    Takeo さんが穏やかな時間を過ごせますよう祈っております.

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    1. こんばんは、底彦さん。

      昨日の投稿は、今のわたしの気持ちにいちばん近いものです。

      わたしはいわゆる「現実」から急速に離れつつあります。そしてその現実の中に底彦さんもJunkoさんもいる。それは「現実を見なければだめだ」という文脈で語られる、「今の社会、この世界」という意味とは多少ズレますが、実際に、底彦さんもJunkoさんも、日々死を想うほど、周囲の「現実」を憎んではいないでしょうし、なんとか折り合いをつけて毎日を生きているのだと思います。事実底彦さんも「電車」とか「駅」とか、「町」といった紛れもない現実と、多少の苦々しい想いを抱きながらも折り合いをつけてその中で生きているでしょう?また「デイケア」や「アルコール依存症のピアカウンセリング」や作業療法で絵を描くなど、好ましい「現実」も持っておられます。


      ではわたしの現実とはなんでしょう。わたしはもはやなにものとも折り合いをつけることが出来ません。世界(外界)とわたしという二項対立があるわけでもありません。わたしは世界と対峙しているのではなく、ただのみこまれ翻弄されているだけです。
      わたしの内面世界が、外の世界と拮抗し得るものであるとはとても考えられません。
      そしてまた、「いかならむ 明日にこころを慰めて きのふもけふも過ごしつるかな」(仮名遣いは正確ではありません)という崇徳院の歌に見えるような、ほとんど諦念に包み込まれてしまいそうな微かな「希望」というものも持ってはいません。

      底彦さんが、「現実」と対峙するものとして挙げられた、想像のちからも、創造力もわたしにはありません。ただただ徒手空拳で現実の醜さに今まさに押し潰されようとしています。

      >自らに内在する諸々の思索や想像を, 云われるところの「現実」の前に置くことを自らの価値観として持つことに躊躇が無くなりました.

      これは本当に喜ばしいことだと思います。

      わたしはこれまで「内面」についていろいろと書いてきたような気がしていますが、実際にわたしには内面とか内なる世界などなかったのです。
      そういう者にできることは、自分の世界を構築し得ないものができることは、ひたすら世界に毒づくことだけです。


      「内面の世界」「自分の宇宙」という言葉は, 見方によっては、なんらかの欠陥により「いま・ここ」にある目の前の「現実」に順応・適応できなかった者が, 自らの後ろ盾となってくれるような尤もらしい正当性を獲得するために生み出したものかも知れませんね. だとすると「自己の内面世界」とは彼らが正当化される世界に過ぎないということになるのではないでしょうか.

      と今のわたしについては言えると思います。



      底彦さんが友人と会われた投稿を読みました。
      底彦さんはわたしが遂に持ちえなかった「友」というものを持っている。
      友のいる者と愛されざる者の隔たりがどれほど大きなものか。

      底彦さんは愛されざる者でも邪魔者でもないということをお伝えしたいと思いました。

      平穏な終末を過ごすことが出来ますように。

      メッセージをありがとうございました。

      不一



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  2. こんにちは, Takeo さん.

    上の Takeo さんの投稿を読んで胸が締め付けられるようです.

    Takeo さんの書く文章や, 投稿する絵や詩などから私は多くのものを受け取っています. それは間違いの無いことです.

    シモーヌ・ヴェイユや二階堂奥歯は知っていたけれど, ちょっと読んで私には難しくて読めない・私の感覚には合わないと勝手に放り出してしまっていたのです.
    石原吉郎の詩もそうです.
    Takeo さんが引用する彼らの文章はどれも心に届くものばかりでした. Takeo さんによって私は彼らをもっと知りたいと思うようになったのです. 彼らを愛し, 深く心を寄せるようになりました.
    彼らを私に紹介してくれたのは Takeo さんです.

    プリーモ・レーヴィの詩や石内都の写真に至っては Takeo さんのブログを通じて初めて知ったのです.
    視野の狭い私ですから, Takeo さんのブログを読むことが無ければずっと彼らに出会うことは無かったでしょう. プリーモ・レーヴィの詩, 石内都の写真. それを教えてくれたことには感謝しかありません. たくさんの.

    これらの出会いは, Takeo さんが私のブログにコメントを寄せてくださり, 私が Takeo さんのブログを読んだことから始まったのです.

    初めて読んだ Takeo さんのブログの中にあった

    > 平気で(彼にとっての)「バトルフィールド」或いは「地獄」に留まって居られることが「治癒」の謂いなのか?

    という言葉は今も私にとって答えの出ない問い掛けとなっています. 頭の片隅にいつもあって, いつも考えるのです.
    昨日も散歩をしながら考えました. 今日も午前中寝込んでいるときに考えましたし, 明日も考えます.

    Takeo さんの言葉は少なくとも一人の人間の心には届きました. そのことを知って欲しいのです.

    Takeo さんの言葉は間違い無く Takeo さんのものです. 私には見えない, 感じとれない何ものかを Takeo さんがその感性で捉えているのだと思います. だから私はこれほど Takeo さんのブログに惹かれるのです.

    > 実際にわたしには内面とか内なる世界などなかったのです。

    何という淋しく悲しい言葉でしょう. どうかもう少しだけ, Takeo さん自身の姿に目を向けてあげてください. そこには孤独 (孤独とは悪い意味ばかりではありません) ではあるけれど, 溢れる優しさと繊細さ, 純粋さを持った一人の確かな人間が見出だせるはずです.

    上の文章でさりげなく引用されている崇徳院の歌も素敵です. こういうのを教養・知性というのだと思います.

    これほど羨ましい才を与えられた Takeo さんは, しかし今, 疲れ切っているように見えます.
    文章を書くのもやっとなのでは, と思わせられます.
    希望の無い世界, 絶望だけでしょうか? それとも絶望すら無く諦めがあるだけでしょうか?

    苦しみはいつか終わりますなどと安易に言いますまい.

    ただ, Takeo さんには豊かな知性と思索があります. きっと何処かに隘路を見つけ出してくれます.
    これは確かだと言えるのです.

    Takeo さんの背中を押すような言葉を掛けたいと思うのですが, 私には人に与えられるだけの満足な言葉がありません.
    こういうとき, 自らの愚鈍さを呪いたくなります.

    それで, Takeo さんのおかげで今では本当に身近に感じられるようになった気がする二階堂奥歯の一文を引きます. 毎日熱心に読んでいるものがそれしか無いので. 見当違いにならないことを願いつつ.

    私自身の心を支えてくれている文章からの引用なのです. 今日を明日に繋げてくれる言葉の一つです. トルーマン・カポーティの引用の後に彼女はこの言葉を書き留めたのです.

    Takeo さんの心に穏やかさと平和が訪れますように. 祈っております.


    なぜよりによってこの物語は終わらないのだろう。
      ──── 2002 年 8 月 13 日 (火) の二階堂奥歯の日記から

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    1. こんばんは(ではありませんが)底彦さん。

      ほんとうに気持ちのこもった、血の通ったメッセージをありがとうございます。

      上の返事を書いてから、あの和歌は崇徳院ではなく、順徳帝の歌だったと思いだしました。配流に遭った帝のなぐさみの歌です。何故崇徳院なのでしょう?
      「瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われても末に 逢わんとぞおもふ」
      底彦さんならこの歌をご存知でしょう。わたしも落語から多くを(?)学びました。
      更に、記憶では、「いかならむ あすにこころをなぐさめて きのふもけふもすごすころかな」が正しかったと思います。

      底彦さんが挙げてくださった名前。石内都を除き、みな幸せな最期とは言えない人たちばかりですね。二階堂は25歳で自死。プリーモはアウシュヴィッツの傷が癒えずに(祖国イスラエルへの強い批判が、彼を更に苦しめ孤立させたという事実も重なります)これも自死。石原吉郎はシベリアの8年間の強制労働の後に生還したものの最期は酒と失見当識によってこれも緩慢な自死と言えなくもないでしょう。
      いや・・・緩慢な自殺というよりもやはり彼もまた追い詰められていたのだと思います。



      わたしはもうアートを見つけることができなくなりました。いままでどうやって絵や写真を探し出していたのか、わからないのです。本も2週間くらい、いちページも読んでいません。ほんとうに、わたしという存在の内側が空洞になってしまっているのです。

      毎日が苦しくて仕方がないのですが、精神医療がどうこうできるという発想はまるでありません。彼らは地獄から逃げ出したい者たちを捕らえて、地獄に留めておくことしかできません。「医療とは、生かすこと」です。それを必要とするのは生きたい者だけであるはずです。

      わたしを救えるものは存在しません。いまのわたしには「死」イコール「救い」という想いが次第に強くなっています。そしていまのわたしには、この現実の世界に「美」の一片も見出すことができないのです。

      底彦さんに過分のお言葉を頂きました。

      ニーチェの最晩年の言葉を引いておきます。

      「かつてわたしも、いくつかのいい本を書いたことがあったような気がする・・・」



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  3. こんにちは, Takeo さん.

    あの歌は順徳帝の歌だったのですね. いい歌だと思いました.
    崇徳院という名前も聞いたことがあると思ったのですが, 百人一首でしたか. Takeo さんは本当にいろいろなことを知っていますね.

    先の投稿で挙げた人たち, 確かに最期が幸せだったと言うのが難しいかたたちばかりですね.
    石原吉郎の酒への溺れようは並大抵ではなかったようですが, 酒は最後の頼りどころになってしまうことがあります. 詩や文章という表現を手にしていてもその渇きは埋められなかったのではと推測しています.
    シモーヌ・ヴェイユは図書館でアンソロジーを借りてきました. この本を借りてすぐに, 図書館は今月末まで閲覧禁止になってしまったのでぎりぎりでした.
    ヴェイユは詩のような文章を書くのですね. これは翻訳 (今村純子) のおかげだとも思うのですが魅力的な文章です.
    Takeo さんも先の文章で書かれていましたが, 二階堂奥歯のブログの中にはシモーヌ・ヴェイユの名前の「シモーヌ・ヴァイユ」という書き間違い (?) があったと記憶しています. 文庫では変えられてしまっているのですか. ちょっと残念ですね. 昨日読んだ日記の一節には夜中にパジャマで公園で花火をする記述がありました. 面白い人だと思います.

    Takeo さんは酷く疲れているように感じます. 精神の苦しみは如何ほどか, 想像もできませんがどうか深く休んでください.
    と言っても休むこともままならないのかも知れませんね. けれどもどうか休まれますように. 祈っております.

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    1. こんばんは、底彦さん。

      昨日今日と肌寒いですね。最近はアートのブログばかりで、底彦さんのブログにも一週間ほど行ってませんが、これから読みに行きます。

      崇徳院の歌は「百人一首」に入ってましたか。わたしはあれは落語「崇徳院」で知ったのです。「崇徳院」は上方落語のようですね。東京の落語家では聞いたことがありません。逆に「千早ふる」は江戸前の落語のようです。
      「千早ふるか みよもきかず竜田川 からくれないに水くぐるとは」

      底彦さんは先代文楽がお好きだと書かれていましたが、わたしは文楽は合いません。
      江戸前の落語で一番好きなのは六代目円生です。もちろん志ん生ー志ん朝、そして馬生も好きですが。やはり円生です。上方ではこちらも故人ですが桂米朝そして枝雀です。枝雀師匠が米朝の弟子になろうと決めたのは、「落語を理詰めで教えてくれそうだから」だったそうです。いかにも枝雀師匠らしいなと思いました。

      「鼠穴」という噺があって、これは円生や小三治に比べても談志が断トツで上手いですが、談志と枝雀師匠では比較になりません。枝雀師匠も自分のファンはどちらかというと鬱っぽい人が多いと書いています。談志には枝雀師匠のような脆さ、繊細さを感じられないのです。



      図書館が閲覧禁止とは利用ができなくなったということでしょうか?
      近所の図書館は、予約した本の受け取りと返却のみ。15日まで、ということでしたが、今はどうなっているのか分かりません。わたしは借りるのも返すのも母に行ってもらっていますので。

      わたしが読んだアマゾンのレヴューは、単行本のレヴューなので、文庫についてはわかりません。けれども、やはり書籍化することで、必然的なミスが「修正」されるというのは違和感がありますね。間違いを含めてその人の日記であり文章なのだから。

      ここ数日はまた少しづつタンブラーやClock without handsに投稿しています。
      今はいい絵を見つけると、ブログの方に投稿したいですね。フェイスブックやインスタグラムほどではないにせよ、やはりタンブラーもSNSの一種だなと感じています。日本語で書かれたサイトは図書館のHPと底彦さんのブログだけです。

      底彦さんもお元気で過ごされますように。声を掛けてくださり、ご心配をいただき、ありがとうございました。

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    2. こんにちは, Takeo さん.

      Takeo さんの絵画のブログも更新されていて嬉しかったです.
      いろいろな絵画を観て集めたのでしょうか. 良い絵がたくさんありますね.

      崇徳院の歌は確か百人一首に入っていたのではと思います. と言うのも他の和歌集はほとんど読んだことが無いのです. それでも崇徳院の名前を聞いたことがあるというのは百人一首なのではと朧げに思いました.

      Takeo さんは落語もいろいろ聞いているのですね. 豊かな内的世界を持っていると心から感心します.
      桂枝雀は聞いたことがありません. ですが Takeo さんの文章を読んで聞いてみたくなりました. 落語はいいです. どこか浮世を忘れられるような気がします.
      噺家さんによって全然スタイルも異なるので同じ話でも全く変わってしまったりしますよね.
      先代桂文楽の『富久』と古今亭志ん生の『富久』を両方持っていて, まるで別の噺に聞こえるのですが, 両方とも実に味があります.

      > 図書館が閲覧禁止とは利用ができなくなったということでしょうか?
      > 近所の図書館は、予約した本の受け取りと返却のみ。15日まで、ということでしたが、今はどうなっているのか分かりません。わたしは借りるのも返すのも母に行ってもらっていますので。

      Takeo さんの近所の図書館と同じです. 受け取りと返却しかできません. 書架には立ち入れなくなっています.
      図書館に行ったときは借りるかどうかの前に, 書架を眺めて時間を送るのが好きなので残念です.
      本のある環境というのはいいものです.

      二階堂奥歯さんの日記は最近はブログではなく文庫で読んでいます. 紙の本で読むと受ける感触が違ってきますね.
      よくわからないのですが, コンピューター上の文章を読んでいるときと紙の本を読んでいるときとでは, 読み方が違うような印象を受けています. 文庫で読んだときのほうが, 時間の流れがはっきりとわかります.
      コンピューター上で読んだときには, キーワードが頭の中に雑然と残っていく感じでしょうか.

      先の文章にも書いたのですが, 私は最初に『八本脚の蝶』を読んだときには自分の好きな文体ではないと感じてそこで読むのを止めてしまっていたのです.
      Takeo さんのブログ経由で再び読み始めたのですが, 今では彼女の文体に魅せられています. 毎日少しづつ読んでいます.

      Takeo さん, どうかゆっくり休んでください. 難しいとは思うのですが, 先日の文章があまりにも悲しい内容だったので.

      私も寝込むことが多いですが, 今日は比較的穏やかに一日を終えることができそうです.
      お気遣いいただき, 本当にありがとうございます.

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