2020年3月16日

底彦さん、Junkoさんへ、お返事に代えて。


こんばんは、底彦さん、Junkoさん。

最近はまたアートのブログの方に時間を割いています。「見るべきほどのものは見つ」ではありませんが、以前(昨年暮れあたり)から、「書くべき程のこと」は書きつくしたという気持ちがあります。
それに、生きていても無意味な人間が何かを書くことの意味がわからなくなっています。

先日「生きづらさ」についての本を借りましたが、結局パラパラとめくっただけで翌週には返却しました。それほど新しい本ではありません。精神科医の香山リカ、上野千鶴子などが、書いているのだか、語っているのだか、そんな本でした。
わたしは巷間「リベラル」と呼ばれている人たちの言葉にどうしても馴染めません。香山リカもそうですし、最近『生きづらさについて考える』という本が人気(?)の内田樹(たつる)といった、「軽い感じ」のものを書く人たち。それでいてわたしには香山リカの本の方が、木村敏の著書よりも難しく感じるのです。


今のわたしは所謂「生きづらさ」というよりも「生きていることの苦痛」をより強く感じています。生きづらい・・・「この道具は使いづらい」「この自転車は乗りづらい」「このペンは書きづらい」等、「~しづらい」という言葉は、非常に限定的な表現に聞こえるのです。書きづらいけど、乗りにくいけど、使いづらいけど ──「仕方がない」と後につづくような感じ。わたしは「生きづらい」のではなく「生きているのが苦痛」なのです。



Junkoさん。

コメントをありがとうございます。

なんでそこまで人間の手を機械化しなければいけないのでしょうね
レジには人がいるわけだから、彼女が金銭のやり取りをすればいいだけの話
結局人を信用していない。ってことに帰結するのでしょうね。

信用云々以前に、単純に人件費を抑えたいということではないでしょうか。
しかし、「人間を信用していない」という考え方にもちょっと「惹かれ」ます。
経営者が、そもそも雇った人間たちを信用できない。確かに今は人間が他者を、見知らぬ人を信用しない(「できない」ではなく「しない」)時代のように思えます。携帯端末により、人と人との≪コミュニケーション≫は、より速く、より遠くまで、という時代ですが、現実には、生身の人と人との距離は、船が陸から離れるように、徐々に、徐々に広がりつつあるのではないでしょうか?
それは何故か?より簡単に、より速く、より遠くまで、より広範囲の人間と接点(?)を持てるようになったということのサイドエフェクトではないでしょうか?

今は必要な時に人がいません。家電の量販店でも、ツタヤでも、ちょっと訊きたいことがあっても店員の姿が見えません。駅には駅員がおらず、車椅子の人が電車に乗る時には、予めの「予約」が必要な場合が増えているようです。それも都心の駅でです。その日の気分でちょっと出かけたいということが、だんだん困難になってきている。

主作用があれば副作用がある。作用があれば反作用が働く。そして今の時代、一体何が「主作用」なのでしょう?誰にとっての?


イタリアは欧州の中でも、感染者が激増しているようですね。
大変不謹慎な言い草ですが、例えば、先日フランスでゼネストがあって、都市機能がほぼ完全にマヒしました。香港ではデモ。香港政府の首脳は「社会が秩序を持ってスムーズに動いていることがなにより大事」だと言いましたが、香港市民は耳を貸しませんでした。

「社会が滞ることなくスムーズに動いていることが最も大事」これは日本人にとっては殺し文句です。スムーズに動き続けるということは、問題に直面した時に、立ち止まって熟考する、或いは社会の理不尽さ、自分たちの尊厳を無視・軽視する政治の在り方に反旗を翻すことはしないということです。


目の手術に関しては、いろいろと複雑な思いです。先ずわたしには限られた選択肢しかないということ。歩いていける場所に都立の病院がある。けれども、手術は5月の末まで待たなければならない。もうひとつは以前片方の目の手術をした御茶ノ水の病院です。今の眼科の医師が提携しているのはこの二か所。わたしは大学病院には行けないし行きたくありません。ここから一番近いのは三鷹の杏林大学ですが、三鷹からバスで20分(?)ほど。わたしはバスには乗れません。

お話した御茶ノ水の眼科の医師が他の医者に比べて特別に横柄だとは思いません。
そもそも診療科を問わず「親切な医者」を探すこと自体が大変なことなのです。
仮に選択肢を広げるという話しになれば、とりあえず今回はどちらの手術も見送る、という「選択」も含まれてきます。「見るべきほどのものを見つくした後」尚目を治すということの意味は・・・ということを考えてしまいます。

白内障の手術の後に、眼内のレンズが薄暗い場所で光が乱反射するという現象について、都立病院の医師は、そういうケースは万に一つもない。だから術後にこういう症状が出ることもあります、などとは書かないと言い切りました。
一方御茶ノ水の医師及び、現在の眼科医は、目にレンズを入れるのだから当然起こりうる症状だと言い切りました。このようなこともわたしに手術を躊躇わせる一因となっています。つまりわたしは眼科医の間でも意見が真っ向から対立する問題の渦中にいるのです。都立最大の病院の眼科医は白だといい。月に数十件の目の手術をこなしている医師は、「そりゃ黒に決まってます」という・・・

わたしは医師を選べないのです。そしてもうこの目も含めて、この世界に「在る」ことに疲れ切っているのです。

Junkoさんもお元気で過ごされますよう。まだ書き残したことがあるように感じますが、このところ、片目のストレスが日増しに強まっていて、片目で考えることの限界を感じています。不充分なお返事をご理解ください。


P.S.

最近一切メールのチェックをしていません。もしメールをくださっていたら申し訳ありませんでした。


◇◇


底彦さん。お返事をありがとうございます。

『八本脚の蝶』解説は穂村でしたか。彼は昨年か一昨年か『泳ぎに行きませんか?』という本を出しています(書名は確かではありません)。この、真夜中に、「これから泳ぎに行きませんか?」といったのが、二階堂奥歯です。多分そのことも書かれていると思います。一時穂村のエッセイを随分読みましたが、ここ数年はまったくダメですね。めっきりつまらなくなりました。穂村は歌人ですが、わたしは現代詩同様、今風の歌にも関心がないので、彼の本分である「短歌」は読んだことがありません。

尚、アマゾンのレヴューによると、書籍化された『八本脚の蝶』には一部収録されていないところがあり、また、疲れていた時に書いたブログのミスタイプがきちんと直されているという点も、そのレヴューをした人には不満足(?)のようでした。実際底彦さんも気づいたかもしれませんが、「シモーヌ・ヴァイユ」と書かれた箇所があります。それを正しく「ヴェイユ」と訂正することがいいことなのか?わたしにはそういう点に拘ったレヴュアーの気持ちがよくわかります。電子書籍を蛇蝎の如く嫌うわたしでも・・・

わたし個人は、彼女を「メンヘラの女王」と呼ぶ人たちの気持ちも分からないし、また底彦さんの言うように、彼女に現実離れした一面を見ることも出来ないのです。
確かに夜、突然「これから(おそらく海へ)泳ぎに行きませんか!」という点では「現実離れ」していると言えなくもありませんが。

それ故に彼女は見るという行為によって自分を現実に繋ぎとめることにこだわったのではないでしょうか.

「現実」とは何でしょう。何故「私」は「現実」(と呼ばれているもの・場所)に繋ぎ留められていなければならないのでしょうか?

わたしはいまここにある現実以外の世界があると思うことで救われています。二階堂が「異世界」に憧れながらも、「今・ここ」に自らを繋ぎとめておこうとする動機或いは理由は何でしょうか?何故糸の切れた凧のように果てしなく「いま・ここ」という「現実」から遊離していってはならないのでしょうか?

 内的世界を蔑み現実に即さないものを一段低く見る

という意識は、底彦さんご自身の内面に、あるのではないでしょうか?

私の思考や空想の世界までも侵入して管理・支配しようとしている

のは底彦さんご自身の深く内面化された、現実を、非・現実の上に置くという価値観であって、それはけっして「外部からの侵襲」ではないように思えるのです。(その起源は措くとして)


わたしは「生きている」とはどのようなことか、と考えます。

例えば、「ホームレスは生きているのか?」また「わたし」は生きているのか?

家無き者たちは、身体の動かせない重度障害者は、そしてわたしは、「外側」から見れば「生きている証し」を持っています。けれども、わたしたちは、はたして他ならぬこの自分が「生きている」という「実感」を持っているでしょうか?

生物学的な生と、形而上学的な生を分けて考えずにはいられないのです。
わたしは生物学的には「死んでいない」。けれども「生きている」と言うことは難しい。誰にとって?わたし自身にとってです。

底彦さんは

けれども, 彼らには間違い無く彼らの「存在と生」があります. 

それをわたしに向かって言えるでしょうか?

たけおさんには間違い無くたけおさんの「存在と生」があります. 」と言われたら、わたしはどう応えたらいいのか、途方に暮れてしまいます。

不思議なものですね。わたしはそういいながら、自分は底彦さんには同じことを自信と確信を持って言うことが出来るのに・・・

逃げ場所が無くなったとき, しかも自分で可能な逃げ場所を全て否定して台無しにしてしまったとき, 鬱病者の救われる場所は何処でしょうか.

「困ったときには相談を!」しかしいまのわたしに逃げ場はありません。
亡命・移住するだけの大金でもあれば別ですが。

わたしはこれまで、わたしと弟で母の両肩にぶら下がっていると考えていました。またそれは事実ですが、最近は、わたしの存在が弟の自由を奪っていると考えるようになりました。


Junkoさんへのお返事同様、散漫なものになってしまいました。

改めてお二人にお詫びします。

尚ついでに昔穂村弘について書いたものをご紹介します。

底彦さんも少しづつでも回復に向かわれることを願っています。


Junkoさん、底彦さん、お読みくださってありがとうございました。





















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