2020年12月20日
わたしの現実
「現実」ということについて
あるブログを眺めていて、興味深い記述に出会った。コメント欄に意見を記そうと思ったが、
どうやらそのブログのアカウント(?)を持っていないとコメントができないらしい。
「御坊哲」さんという方の「禅的哲学」というブログである。タイトルの下に、
「禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。」と書かれている。
科学では、感覚抜きの物的事実を真実としていますが、西田は感覚で直接とらえたもの(純粋経験)こそ実在の事実すなわち真実であると言います。逆に、科学における感覚抜きの物的事実というのは推論による解釈に過ぎないと言っているのです。このことは仏教における「あるがまま看よ」ということに通じていると思います。
現前するものをすべてそのまま現実として受け入れる。それが「あるがまま看よ」ということであります。それは別に科学を否定せよということではありません。生きていくためには科学的なものの見方考え方は必要であります。ただ、ものごとの解釈にとらわれ過ぎて現実の世界を見誤ってはならないということなのです。禅の書物には、坊さんがやたら「喝!」と怒鳴ったり、棒でたたいたりと結構乱暴なシーンがでてきますが、これは意表を突く大声や痛みによって、相手に今生きている世界を実感させるという意味があります。私たちは感覚の世界の中に生きていることを実感するということが、地に足を着けて生きるということなのでしょう。
(下線・太字Takeo)
◇
「ものごとをありのままに」見るということが果たして可能だろうか?例えば、一枚の画が目の前にあり、その画の「ありのまま」とはどういうことだろう?「見る」「聴く」「嗅ぐ」「触る」そして「味わう」という行為と、「解釈すること」とを分けることができるだろうか?
2020年12月19日
堕ちよ・・・
2020年12月18日
たのむから静かにしてくれ!
2020年12月16日
追記
I could not see my words
Nor the wishes of my heart.
Then suddenly there was a great light —
'Let me into the darkness again.
Stephen Crane, I was in the darkness, 1895
I saw a creature, naked, bestial,
Who, squatting upon the ground,
Held his heart in his hands,
And ate of it.
I said: "Is it good, friend?"
"It is bitter - bitter," he answered;
"But I like it
Because it is bitter,
And because it is my heart."
Stephen Crane, In the desert , 1895
底彦さんへ、「精神性」についての断想
この生活を私は無為なもののように感じてしまうのです.
それができないから, それが現在の自分にとってはとんでもなく難しい, もっとはっきりと言えば無理なことだから, そのようなものを求めてしまう思いから「抜け出したほうがいい」と書いたのです.
2020年12月15日
精神医療との訣別
2020年12月12日
希み
「もう いいよ・・・」
断想・・・
2020年11月18日
敵対者
2020年11月17日
断想(わたしは誰とも似ていない)
2020年11月14日
孤独と生
"Mostly I just kill time" he said. "And it dies hard"
2020年11月12日
生きる意味
2020年11月11日
生き残る、ということ
「四月以降の売り上げは前年比九割減。最近はやや持ち直したものの七割減が続いた。持続化給付金なども受け取ったが、人件費や家賃を「とても穴埋めできなかった」と店長の見米(みこめ)さん(六十歳)は語る。政府の「Go To イート」の恩恵を充分に受けるには予約サイトへの登録が必要で、六十~八十代の従業員に対応は難しかった。」
政府の「Go To イート」についても、「ネットを使えない店や客は恩恵にあずかれない。ほんとうに困っている人を助けられているか疑問」
2020年11月3日
多様性への懐疑、或いは人間廃業宣言
2020年11月2日
わたしの狂気 弟の正気
わたしのブログのタイトルは、昨日、11月1日を以て『ぼく自身或いは困難な存在』から『人間 廃業 宣言』と改めました。それは「人間であるということ」に疲れ果てたこと、最早「人間」「ヒト」という生き物ではありたくないという気持ちの表れでもあります・・・
「生き地獄の日々」の筆者を、わたしは親しみを込めて、「廃人さん」と呼んでいます。ここで過去の自分の言葉を三度(みたび)、繰り返します。ああ、自分で自分を貶める ── 正確には「本来の自分」を直視することだが ──「言葉による自傷」は、時になんと快いのだろう。自分が最早これ以上落ちる(堕ちる)ことのない「どん底」の泥濘の如き存在であるという安堵感、最早人間ですらないという心の解放感。このような気持ちを別の言葉で言い換えたものが「人間 廃業 宣言」なのです。
ただし、「廃人さん」はわたしとはまったく逆に、このどん底からなんとか這い上がり、社会復帰を目指しています。「自称」ではなく正真正銘の廃人であるわたしには到底真似のできないことです。またわたしの知っている「底辺」を名乗る方もやはり、廃人さんと同じ精神の病に苦しみながらも、「日の当たる場所」へ歩を進めていこうと日々努めていらっしゃいます。「人間廃業」を宣言したわたしと、「廃人さん」「底辺さん」とはここでお別れのようです。◇引っ越しの業者をなかなか決めることができないわたしを心配してか、或いは業を煮やしてか、弟が、全部自分がやるからと言ってくれました。ところが弟は、わたしが決められない理由を改めて聞いて、真から呆れ果てているようでした。弟の考えを一言でいうなら、「いったい人に何を求めてるんだ?」ということではないかと思います。「電話の切り方が無礼」だとか「消費税分の金額を後から言うとか」そんな些細な事を気にしてたんじゃ永遠に業者なんて決まらないよ。というのが弟の言い分のようでした。彼の基本的なスタンスは、わたしや母と違い、「世の中ってそんなもんだもん。しょうがないよ」。つまり「そんなもの」である世の中の在り方に不平不満を言っていたのでは、そもそも生きて行けないという、まったく反論の余地のない正論でした。以前弟は、わたしの主治医に、わたしが本ばかり読んでいるが大丈夫なのかと尋ねたことがあります。これもまた一理もニ理もあるのです。嘗て「ぼく自身・・」に書いたことがあります。
「何を読み、何を見、何を認識し何を考え何を感じたかがさらなる世界像を作る」ことは確かだ。しかし、そのことと、「世界を認識する枠組みは世界の中から変えていくことが出来る」ということを混同することはできない。
わたしが自己の感受性や美意識によって取捨選択し構築した世界、それはあくまでも「わたしという一個人」の「内的世界」「内宇宙」でしかない。そして自己の内側に、自己の美意識に基づいた世界を持つことは、「世界を認識する枠組みは世界の中から変えていくことが出来る」どころか、逆に現にわたしの外側に、「わたしとは全く無関係に厳として存在している客観的世界」との乖離を深めることすら意味している。
「何かを読み、何かを見、何かを認識し何かを考え何かを感じたかがさらなる世界像を作る」そのことによって、わたしはますます現実の世界から遠ざかってゆく。
繰り返す。
自分の美意識によって形作られた内面世界は、客観的世界と相容れない。
もし「今・そこにある世界」になんの不満も欠乏も感じていなければ、「内的世界の創造」の必要などないからだ。
2020年11月1日
人が怖い
わたしの傷・・・ わたしの狂気・・・
”人を遠ざけるのは簡単だ。近づかなければ十分だ。”ーフェルナンド・ペソア*”人を遠ざけるのは簡単だ。近づけばいい・・・”ーTakeo
2020年10月30日
言葉と社会
ポトンと音がした。
見るとボタンが落ちている。
直径2cmくらいの大きめのボタン。
失くしたことに気づいた時には補填が難しい品。
教えようかなどうしようかなと、一瞬迷った私。
でもやめておこうと思った私。
ところが、
「落ちたよ」と大きな声をかけた人がいる。
おじさんだった。
ボタンを落とした若い女性は黙って拾った。
そして、
そのまま電車を降りて行った。
「ありがとうございます」も言わずに・・・
それが想定できたから私は教えてあげるのをためらったのかもしれない。
おじさん、あなたは偉いよ、実に偉い。
何の反応も返ってこなくても呟かなかったもの。
おじさんって言いがちだよね「礼も言わないのか!」って。
あなたは言わなかった。
今朝の電車での一コマ。
些細な社会的言語さえ発語しない人が増えている。
オ・マ・エは機械か。
次第に血の通わぬ機械になりつつある人間。
不気味だ。
露草さんは、「どうせ声を掛けてもお礼を言ってもらえないから」声を掛けなかったのではないだろう。わたしより少し年上で、今も電車通勤をしている露草さんは、「わたしたち」の「あたりまえ」が「今のあたりまえではない」ということを知っていたから、関わらなかったのだ。ボタンを落としたのが年配の方であれば、わたしも露草さんも、当たり前のように、「あ、ボタン、落ちましたよ」と拾ってあげるだろう。
イグノーベル賞はノーベル賞のパロディーといわれますが、それでも知名度は抜群ですよね。
その医学賞がミソフォニアの研究なのですから、全世界のミソフォニアはこの受賞を知ったら大喜びですよね。
多くの人に、音嫌悪症というものがあるのだということを知ってもらい、咀嚼音や鼻すすりや様々な音が嫌悪の対象になっているんだということを理解してもらいたいですね。
みんなが一度でもそのことについて考えたならば、きっと世界はもう少し住みやすくなる、はず。
この言葉に深く頷くとともに、イグ・ノーベル賞医学賞に心からの拍手を送りたい。
◇
オ・マ・エは機械か。
次第に血の通わぬ機械になりつつある人間。
機械ならぬ「生き物」である人間を電車やバスに乗せて運び、美術館で展示品を公開するということは、人間が未だ完全に機械になりきっていない以上、考え得るあらゆる危険をいちいち読み上げて、おやめください、ご注意くださいと言っていたのでは単に音の洪水が生まれるだけではないのか?そしてそれ以上に、人間が言葉(忠告・警告)で完全に制御可能という発想はどこから生まれてくるのか?換言すれば、およそ犯罪を犯すものは、自分の行為が「犯罪(=違法行為)であるということを知らなかった者たちばかり」なのか?
バスの降り際に、「どのバスもこんなにうるさいんですか?」と尋ねるわたしに運転手は、あたりまえのように「決まりごとがいろいろあるんだからしょうがないでしょう」とわたしの顔を不思議そうに眺めていた。
どこまでも愚鈍な国民・・・
◇
「ひとりしずか」
加えて
2020年10月28日
駄々・・・
2020年10月27日
無思考と狂気
2020年10月24日
関係性の障害と治癒
2020年10月23日
負が背負う唯一性
極個的な関係の「極個」という言葉にハッとさせられました。
そして、私がなぜ固有名にこだわるのか、他者性の文脈で分かりました。
それは、固有名は取り替えがきかない、ということです。
すなわち、私の「メール仲間」(という言葉)は取り替えがきくけれど、
「武雄」は取り替えがきかないということです。
他者性を前提にしたとき、この取り替えのきかなさ(極個性)が倫理の土台に必要、と考えました。
「健康でノーマルな人間はつまるところ、「群れ」に過ぎない」ーアントン・チェホフ
断想
最早パスカルのいう「人間の尊厳」すら喪っている痴呆老人にも、いのちの尊厳はある。
その根拠となるのは、他ならぬ、わたしたちが、感情移入できるか?ということ。
誰かがその人間に対し感情移入することによって、命の尊厳は保たれるのだと思う。
以前、教えてくれた言葉、
「不幸な人にしてあげられるただ一つのことは、彼(ら)に関心を向けることだ」(シモーヌ・ヴェイユ)は心に残っています。
ただ、「関心を向けること」は、「してあげること」ではなく、他者性とむき合うときの倫理(姿勢)のような気もします。
内側から湧いてくるものでなくては、嘘くさく(「福祉的に」「傲慢に」?)なってしまう気がします。
2020年10月22日
「他者性」について、思いつくままに
人間が熊よりも面倒なのは、ことばが通じないこと・・・」
「中国人がしゃべるのをきくと、わたしたちはそれを、ガラガラゴロゴという、分節化されていないうがいの音かと思ってしまう。
中国語のわかる人がきけば、それは言語であることがわかるだろう。
おなじように、わたしはしばしば、人間のなかに人間の姿をみつけることはできない」
(ヴィドゲンシュタイン『反哲学的断章』丘沢静也訳、青土社、1988)
それに対しわたしは、
この話を聴いてすぐに思い出したのが、ディオゲネスの逸話です。もちろんご存知と思いますが、白昼アテネの街をランタンをぶら下げたディオゲネスが歩き回っています、みなが面白がって、何をしてるんだと訊くと、「人間を捜している」と。
ことばを共有し得ない存在。確かにこれも「他者性の極北」と言えると思います。
一方で、ディオゲネスやヴィトゲンシュタインは、まったく普通の人中に混じりながら、自己と周囲の間に隔たりを、異質性を感じていた。
何故、彼らは、現実に言葉が通じ、場に応じた衣服を着ることができる者たちに「他者性」を感じたのでしょう?
ディオゲネスやヴィトゲンシュタインの「狂気」が、彼らに「ごく普通の人たち」に「他者」を想起させたのでしょうか?
わたしはそれを離人症だとか、分裂病の前駆症状と簡単に片づけてしまいたくはないのです。
ディオゲネスやヴィトゲンシュタイン、さらに「わたし」が「彼ら」と「共有できていないもの」とは何でしょうか?
これは今では死語になっている感のある「群衆の中の孤独」というものとはちょっと違うと思うのです。そのような詩的でロマンティックなものではなく、「彼ら」は「わたし」にとって「他者」でしかあり得ず、同時に「わたし」は「彼ら」にとって、同様に、「異質の他者」でしかありえないという強い疎外感です。