わたしのブログとは結局「これ」だったのだ。
「傷をつける」のではない。
自己の内面の傷を、「受傷」を、あるがままに表出する。
同時にわたしにとって、書き手の、抉(えぐ)られた傷口の見えない(或いは感じられない)文章は何の魅力も感じない。
嘗てある人が、わたしの文章を硬質な詩のようだと言ったのは、わたしには、アルベルト・ブッリのような文章表現ができなかったからだ。
けれどもわたしの内面は、ルシオ・フォンタナよりも、寧ろブッリに近い・・・
わたしのブログとは結局「これ」だったのだ。
「傷をつける」のではない。
自己の内面の傷を、「受傷」を、あるがままに表出する。
同時にわたしにとって、書き手の、抉(えぐ)られた傷口の見えない(或いは感じられない)文章は何の魅力も感じない。
嘗てある人が、わたしの文章を硬質な詩のようだと言ったのは、わたしには、アルベルト・ブッリのような文章表現ができなかったからだ。
けれどもわたしの内面は、ルシオ・フォンタナよりも、寧ろブッリに近い・・・
一日が長くてどうしようもない。
やることがない。いや、やりたいことがない。
神谷美恵子の言葉を借りれば「生きがい」というものがなにもない。
先日、ある90歳の女性のブログに以下のような文章が引用とともに記されていた。
◇
この年齢まで生きるとは想像したこともなく、生死は自分で決めることもできません。
*老いて生きるとは不安との共生、死にたくても死ねない苦悩〜死と生の執着も併せ持つ矛盾を抱いている* という文章を読んで諸行無常の言葉がうかんできます。
でも楽しかった思い出を引き出すことにしました。
まずは12月の誕生日には卒寿祝いをしてくれる子どもの上京を待つ事にします。(太字 Takeo)
以前は死ぬことばかり考えていた。
今は死のことしか考えられない。「考える」というよりも、「死」の観念が頭から離れることがない。
以前にも書いたが
レーガン政権時代の一時期、カリフォルニアのバークレーに住んだ。いまから30年以上まえ、カリフォルニア大学バークレー校で、おもてむきは米国のアジア政策について受講するという名目で、そのじつ、ジョージ・オーウェルやジョセフ・ヘラーの小説を読みふけり、くる日もくる日も映画三昧にくわえてバーボンとジャズ、脳みそがとろけるほど自由な時間を満喫した。ー 辺見庸『コロナ時代のパンセ』(2016年4月号)「バーニー・サンダースのこと」
◇
◇
彼女にとって、カウンセリングは一種のアジールであった。ある人は「解放区」と呼ぶ。世間のドミナント(支配的)な家族言説から解放される場、それがカウンセリングの役割なのだ。(略)なぜ、アジールが必要なのか。「私は親からまったく愛されませんでした。だから親のことは嫌いです」「母親の存在が不気味で恐怖すら抱いてしまいます」「いっそ早く死んでほしい」という衷心から発する言葉が無批判に聴かれる場所がなければ、彼女や彼らは孤立無援の状態におかれてしまうからだ。自分が感じていることが「正しくない」「ヘンだ」「異常だ」と批判されて責められること、自分が感じ、考えていることが誰からも承認されないこと、このような状態で人は生きてゆくことはできない。たとえ生命は維持できたとしても、精神的生命は絶たれてしまうのだ。(略)どちらを向いても孤立無援な闘いしか見えないとき、たったひとつのアジールが必要なのだ。クライエントは、生きるために、命を賭けてアジールとしてのカウンセリングを求めているのだ。そうしなければ生きてゆけないからである。とすれば、カウンセラーの役割は明瞭である。目の前のクライエントが生きてゆくことを支援するのだ。そのために、彼女が母の死を喜んでいるのであれば、ともに喜ぶ、ためらいもなく、そうするのである。(下線・太字Takeo)信田(のぶた)さよ子著『国家と家族は共謀する サバイバルからレジスタンスへ』(2021年)
ゴダールが1965年に制作したこの近未来SFを観て、感想を書くことの難しさを感じている。朋友であるフランソワ・トリュフォーが監督した、レイ・ブラッドベリの『華氏451』のように、ストーリーに一貫性がなく、いわば「言葉」と「感情」についての様々に矛盾したフラグメント(断片)の集積のような作品だからだ。
『帰って来たヒトラー』という映画を観て、その感想を書こうとしたが、どうしてもうまくまとめることができない。
辺見庸は書く
年をとったら、ものわかりがよくなる。おだやかになる。腹立ちが減る。なにごともてきとうなところであきらめる。周りと上手にあわせる。争わなくなる。口汚くなくなる。ジョウシキというものをわきまえるようになる。そうおもっていた。だが、年はたっぷりととったのに、さっぱりそうならない。逆である。年とともに、内心がグツグツと沸騰するようになっている。世の中と、というか、世界中と、うまくおりあいがつけられない。いつもなにかを呪っている。絵空事をならべるのも、ならべられるのもノーサンキュー。風景がみんな書き割りにしか見えない。人の動作、言葉がなぜだかわざとらしい、すべてはあまりに空虚だ。
『コロナ時代のパンセ』「2016年12月」(2021年)
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「苦しい時に本に助けられることが多い。でもその時その時、どの本が助けになるのか、開くまでわからない。読んでいる途中もあまりわかっていない。読み終えてから、あやういところを助けられた、と思う。」
わたしは先に「哲学は人を救えるか?」という問いに対して、「否!」と答えるだろうと書いた。
わたし自身、30歳の時から(一昨年くらいまで)約30年近く、様々な精神科医と出会ってきた中で、「統合失調症」と診断されたことも、またその疑いを持たれた経験もない。
私たち精神科医がもっとも気をつけなければいけないことは、患者を自殺させないということです。(略)鬱病だったら、医者が十分に注意すれば、自殺を予知したり予防したりすることは原則的に可能です。ところが統合失調症の場合だと、これが恐ろしく困難になるのです。統合失調症の人は、なんの予兆もなく、ある日突然、自殺を決行してしまうことがあります。死と非常に近いところに、死と隣り合わせに生きている、と言ってもよいかもしれません。統合失調症の人にとって、死は、残された唯一の自己実現の可能性として選び取られることが少なくないのです。前にも申したように、治療中の患者に自殺されるのは、治療者にとって重大な失敗なのですけれども、それでも私たちは患者の自殺に直面して、これでよかったんだという一種の安堵感すら抱くことがあるのです。(下線 Takeo)
◇
「灯下親しむべし」という言い方をします。(わたしの記憶が正確なら)秋の夜長に、ロウソクの灯(ともしび)の下で書物に親しむことを言います。
五右衛門風呂は世の中で一般に思われているように、民俗資料館の展示物となるべき性質のものではない。それは等身大の湯釜を通して、火に直接触れるという、人間に許された数少ない恵みのうちのひとつなのであり、なおかつ、火を焚くという哲学的行為をも恵んでくれるものなのである。
地の底から自然に湧き出す温泉につかり、地の底の熱の有難さを味わうこともすぐれた文化の型であるが、踏む度になんとも嬉しい踏み板を踏んで湯釜につかり、ぱちぱちはぜる木の燃える音を聞き、甘いような煙の匂いにつつまれて瞑目していると、文化というものは、なにも特別大仕掛けな科学万博めいたものではなくて、至極単純、素朴なものでよいことがはっきりと判るのである。
わたしが繰り返し「書けない」と言っているのは、思考力・集中力の低下などということ以前に、「独りであること」に因る「生の倦怠」が極限にまで達しているということに他ならないと思っている。
わたしは多田智満子のように、「最後に残るのは本」だとも「本こそ究極のもの」だとも思わない。最後に残るのは、結局はいのちのぬくもりであると思っている。「わたし」という「個」に注がれた愛情と想いだと考えている。「究極」という言葉を用いるなら、究極のところ本とは(ハムレットの台詞のように)「ことば」の集積に過ぎない。「言葉」や「知」というものに根深い不信感を抱いているわたしにとって、極論すればそういうことになる。昔よく言われた、「哲学は人を救えるか?」という問いに対しては、わたしは常に「否」の立場である。究極的に人間存在を救い得るのは、ゼニ・カネでも、クウネルトコロニスムトコロでも、先賢先哲の「ことば」でもなく、文盲の老女の無私の愛以外には無いのだ。人の魂を救い得るのは他の魂以外にはないと固く信じている。「本があるから私は孤独ではない」等という言葉(或いはそう言える人)と、わたしの孤独の闇の深さ冷たさとの懸隔は計り知れないほどに遠く、また深い・・・
「隣人の平安は、とりもなおさず私自身への悪意なのだ。私は他人の平安におびえながら、今日も街を歩いている。隣人の平安のない世界。不幸なことに私は、やはりひそかにそれを求めている」「一九五六年から一九五八年までのノートから」
石原吉郎は決して存在論的な「美」云々のために「隣人(=他人)の平安のない世界」を望んでいるのではない。
けれどもやはりわたしは彼の心情に共鳴し、この言葉に救われている。
58歳。気持ちは夙に最晩年を迎えている。心身ともに衰弱し、気力なく、思考力も失った今、一体何が書けるのか。それともすでに何も書くことはできないのか。仮に書けたとしても、それはもうはや稚戯に類するものでしかないのか・・・
10月5日の投稿「地獄とは・・・」の中でわたしはこう記した
「鋭敏すぎる美意識や感受性は、それを持つ者にとって、ある意味で「不治の病」であり、それは彼自身にとって「地獄」でもある。」
頂いたコメントの中で底彦さんは次のように書いてくれた「しかし, その鋭敏さは美や真理に向かうときにその大きな力を発揮すると思うのです.私は「Clock Without Hands.」から日々の力を得ています. 背中を押してもらうように感じるときもあるのですよ.
そこにあるのは, Takeo さんが自らの美意識に基いて選んだ作品の集まりです.
Takeo さんがそれらの作品を見つけ, 選ぶときに感じているであろう精神的な高揚感を救いとすることはできませんか?
Takeo さんが「わたし」であることの地獄を, Takeo さん自身の美意識で見出だした作品群で癒すことはできませんか ?」
◇